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アセン要塞&バチコヴォ僧院

ブルガリアの南、ロドピ山脈へ。晩秋の澄みきった空気は、我々の心まで浄化してくれそうだ。山脈の入り口ではアセン要塞とその教会が、そこを抜けるとブルガリア第2といわれるバチコヴォ僧院が迎えてくれる。


アセノフグラッドから南に3km、スモーリャンへ向かう幹線道路沿いの切り立った崖の頂にブルガリア国旗が風にたなびく要塞跡が見える。トラキア人の時代からこの場所の戦略的重要性が認められ、紀元前5世紀には砦が建てられた。支配者は変われど、その重要性は変わることはなく、砦は要塞となり、そして巨大化していった。この要塞から、さらに10kmほどロドピ山脈に入り込むと、人でにぎわう「リラの僧院」とは対照的に、まるで人を拒むかのようなたたずまいを見せるバチコヴォ僧院に到着する。

アセン要塞の北にあるアセノフグラッド市方面を望む。南に抜けるにはここへの1本道を通るしかないことが良く分かる。まさに要衝、ここに要塞が造られた理由がよく分かる。手前にあるのはイヴァン・アセン2世が建てたペトリチ聖母教会

アセン要塞の頂に翻るブルガリア国旗。第2次ブルガリア帝国時代に最盛期を迎えたこの要塞の起源は、石器時代にまで遡ることができる。記録としてはバチコヴォ修道院の図書館に残る803年のものが最古のものだという

アセン要塞は、見上げるような切り立った岩山の頂上にある。時代ともにトラキア人、ローマ人、ビザンティン人、十字軍、ブルガリア人、オスマン人と、時代ごとに支配者を代えてきたが、要塞としての機能は失うことがなかった。まさに「地の利」を生かした要塞といえよう

紀元前4世紀ごろ、トラキア人によって、この要塞は築かれた。周辺にはトラキア人の生活の痕跡も残されている。ブルガリアとラテン諸国との関係悪化により、イヴァン・アセン2世の時代この要塞は強化された。要塞の名は、この皇帝の名に因む

オスマン・トルコの支配時代、必要性のなくなった要塞は破壊されたが、ペトリチ聖母教会は、破壊を免れる。中世のキリスト教建築として、いまや貴重な存在となった。保存作業を経た現在、ブルガリア正教会の教会としての活動が再開されている

ペトリチ聖母教会の2階には、3世紀の壁画が部分的に残されている。要塞の教会だけに、塔は見張り台としても活用された。1階は納骨堂として建築されたと推定されている

バチコヴォ僧院。ブルガリアで2番目に大きな修道院で、1083年の創立。この時代から残るのは僧院から400メートルほどの所の納骨堂のみ。僧院が現在の姿になったのは、19世紀半ばのこと。内部は撮影禁止のため、その様子を伝えられないのが残念。柿や松といった東洋的な樹木が植えられていたのが印象的だった

僧院の門前から参道を望む。前方に見えるアーチの先からは俗世界なのか、参道の左右にお土産屋が並ぶ。そこまでは、さんざめきのない世界を静かに歩む。前方にはロドピの山、そして周囲には秋色の木々

参道沿いにあった水汲み場。中央には「1993年6月19日」の文字が見えるが、残念ながらあとは分からない。地元の老夫婦が水を汲んでいたが、おそらく山の湧き水なのだろう

参道沿いのお土産屋さん。絵柄がかわいい素朴な陶器からレース編み、民族衣装、食べ物、飲み物にいたるまでなんでもある。実際、リンゴ印のスマホの充電用ケーブルを扱っているお店があったのにはホントに驚いた



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地球の歩き方ガイドブック 編集部