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ヴェリコ・タルノヴォ

古都の夜を彩る「光と音のショー」。この華麗なショーは、実はブルガリアが独立にいたるまでの苦難の歴史を表現したもの。この丘が真っ赤に染まるとき、それは他国の侵略で多くの民の血が流されたことを表す。真っ赤になるのは一度や二度ではない。悲痛な歴史を実感させられる場面だ。

第二次ブルガリア帝国の首都として栄えたヴェリコ・タルノヴォは、ブルガリアで最も古い都市のひとつである。考古学調査によれば、5000年も前にここに人々が住んでいたという。帝国の最盛期であった12〜14世紀には、ブルガリアの文化の中心となったが、同時に最強の要塞都市ともなった。要塞は、ヤントラ川に囲まれたツァレヴェッツの丘に建造され王宮、教会、住宅、貯水タンク、防衛塔が建ち並ぶ本格的な都市でもあった。帝国の滅亡とともに要塞は廃墟となったが、周辺には人が住み、美しい旧市街が残る。どこを歩いても異なる表情を見せてくれるこの町は、立体的で、その美しさは中央ヨーロッパでも指折りの存在だ。

ヴェリコ・タルノヴォ旧市街とヤントラ川。オベリスクのような碑はアセン王のモニュメント。1985年、第2次ブルガリア帝国の建国や発展に功績のあった4人の王を記念して建設された。屹立する剣の周囲には、アセン1世、ペタル4世、カロヤン、アセン2世の騎馬像が並ぶ

ツァレヴェッツの丘から丘への入り口方面を望む。向こうには旧市街の一部が見える。この丘は、大きく蛇行するヤントラ川によって三方を囲まれる形になっており、まさに要害の地である。ここに城壁を構えた要塞を造ったのは当然のことだった

旧市街のメインストリートを道なりに歩いてくると、ツァレヴェッツの丘の入り口に着く。中央門に続くこの石畳の道や、城壁、塔などの復旧工事は1930年に始まり1981年に終了した。また発掘調査では、470以上の民家、貴族の豪邸、23の教会、4つの修道院がこの丘にあったことが分かった

第2次ブルガリア帝国時代にはこの丘全体が要塞を中心としたひとつの町を形成していた。1393年、オスマン・トルコの攻撃で要塞は陥落、がれきと化した。今は、1981年に再建された頂上の大主教区教会のみがその存在を誇示するように建っている

夕方の職人街サモヴォドスカタ・チャルシャ。平日ということもあって人通りは少ないが、伝統的な建物と石畳の街並みが旅情を誘う。軒を連ねる店は工房を兼ねており、そこでは職人が作った商品をその場で売っている。職人の仕事ぶりを見ることができるのが楽しい

職人街の銅製品屋さんの看板。鍋をかたどったデザインがおもしろい。ここで作られた銅製品は軒先に吊るされ、遠くからでも何の店か分かる。銅製品といえば高価なことで知られるが、ここで購入すれば日本で購入するよりも安い

金銀細工店のショーウインドーには、なぜか盆栽が飾られていた。繊細な銀細工の商品には、盆栽の「わび、さび」の感覚が似合うような気がした。ヴェリコ・タルノヴォ大学に、ブルガリアでは珍しい日本語学科があることも影響しているのかも

2013年に開場されたばかりのツァレヴグラッド・タルノヴグラッド。ここはバルカン半島唯一のろう人形館で、ブルガリアの中世期、特にアセン王朝時代(12〜13世紀)に展示のポイントが置かれている。建物はかつての市庁舎

第2次ブルガリア帝国の皇帝カロヤン(在位1197〜1207)と妃アンナ。カロヤンは、同帝国の建国者であるイヴァン・アッセン1世とペタル4世の弟。十字軍国家との戦いを通じて、帝国の勢力を拡大した

宗教画描きの作業の様子。この展示から、描く順序が分かる。まず背景から描き、人物は背景を白く抜いたところに描きこんでいく。展示されているろう人形は、ヴェリコ・タルノヴォの彫刻家ボリス・ボリソフ氏の作品

中世においては、読み書きを教えるのは教会の役割。聖書の写本作業も盛んに行われた。当時は紙といえば羊皮紙で、そこに書かれた文書は写真のように装飾性の高いものでもあった

トラペジッツァの丘(写真左側)とツァレヴェッツの丘の間にはヤントラ川が流れる。ふたつの丘を結ぶ石橋のそばには40人教会(川の右側のオレンジ屋根)がある

40人教会の背後にはツァレヴェッツの丘の城壁が見える。1230年にイヴァン・アセン2世が建てたこの教会は、以後、王の墓所となり、貴族も葬られるようになった。今見られる教会は2006年に再建されたもの

聖堂の内部には大理石がふんだんに使用されている。イコノスタシス(聖障)も大理石製。そこに架けられたイコンの数々は、真新しいものだが、建物自体が再建されたものだけに不自然さはない。聖堂内には6本の柱が立っている

聖堂内の6本の柱のうち2本には、文字が刻まれている。写真は第1次ブルガリア帝国最盛期の皇帝クルム汗(755〜814年)が文字を刻んだ柱。歴史的にも貴重なもの

40人の殉教者を描いたイコン。この教会の名は、アセン2世がエピロス専制国に勝利し専制国皇帝を捕らえた日が「40人の殉教者」の受難日であったことから名づけられた。オスマン・トルコの支配時代にはモスクとして使われたことで破壊を免れれたが、1913年の地震で建物は倒壊した

クリプト(地下聖堂)から祭壇を望む。壁には、かつてこの教会にあったフレスコ画の一部が貼り付けられている

カロヤン王(1168〜1207年)の墓は教会の入り口横にある。テッサロニキ王国を攻撃中の1207年、彼は部下の裏切りにより暗殺される。遺体はこの教会に埋葬された。1972年、カロヤンの遺骨が発見され、改めてここに埋葬された



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地球の歩き方ガイドブック 編集部