フェルメールの足跡をたどる

フェルメール・センター

フェルメールの博物館であり、フェルメールがギルドの代表として働いたことのある聖ルカ組合があった場所に造られた。 ファサードは当時のままに復元されている。全作品の原寸大パネル掲示や透視方を活用した作画技法を紹介する展示など興味深い。 展示を追うことで画家が独特の色彩や構図そして光の表現をどのように習得していったかが理解できる。 1階にはフェルメール関連グッズを販売するショップやテールームが併設されている。

3つの金槌亭

フェルメールの父が経営していた宿屋が<3つの金槌亭>であり、現在はコープハンデルというホテルになっている。 部屋の内装は、フェルメール、レンブラント、ゴッホといったオランダの画家の作品がテーマになっている。 廊下にもイーゼルが置かれたり、著名な絵画が飾ってあったり、ホテル全体がアートで演出されている。フェルメールゆかりの地を訪ねるにも便利な立地である。

空飛ぶキツネ亭

現在のフェルメール・センターである当時の聖ルカ組合のある通りの25番地にフェルメールの生まれた<空飛ぶキツネ亭 Flying Fox>があった。 父親ラーニール・ヤンスはサテンの一種であるカファの職工であり、フェルメールが生まれる前年の1631年に美術商の主人として、聖ルカ組合に登録されている。 <空飛ぶキツネ亭>は、フェルメールの両親が副業として経営する宿屋だった。

メーヘレン亭

フェルメールが9歳のときに一家が移り住んだ宿屋であり、マルクト広場の一角に位置した。 結婚してからもしばらく暮らしていた場所であり、現在は跡地を示すプレート表示がある。※写真はイメージだが、フェルメールゆかりの場所には、写真のようなキューブが設置されているので目印になる。

新教会

1632年10月31日、フェルメールが洗礼を受けた教会である。 16世紀末、スペイン国王フェリペ2世と戦い、オランダの独立を勝ち取ったオラニエ候ヴィレムを始め、オランダ王室のメンバーのほとんどが埋葬されている。

旧教会

1675年12月16日、43歳で逝ったフェルメールが埋葬されたのが旧教会である。 その際、妻カテリーナと11人の子供が遺されるが、子供のなかで成人していたのはわずかひとりだった。 詳しい埋葬場所は特定されていないが、フェルメールの没後300年の1975年に記念の石碑が置かれた。

市庁舎

1653年4月5日、ヨハネス・フェルメールはカタリーナ・ボルネスとの結婚の意志を正式に届け出る。 市庁舎の建物は17世紀初頭に焼失した市庁舎の跡地に、ヘンドリック・ケイゼルによって再建されたもので、焼け残った塔のみが14世紀に建造されたものである。

小路

デルフトらしい建物を組み合わせて描いたともいわれ、絵のままの場所は特定されていない。 路地裏を散策していると17世紀当時雰囲気を留めた建物を見るけることができる。 そんな出合いがあるのもこの町の魅力のひとつ。(写真はイメージ)

小路

デルフトらしい建物を組み合わせて描いたともいわれ、絵のままの場所は特定されていない。 路地裏を散策していると17世紀当時雰囲気を留めた建物を見るけることができる。 そんな出合いがあるのもこの町の魅力のひとつ。(写真はイメージ)

「デルフトの眺望」

「デルフトの眺望」を描いた場所は、スヒー川の対岸と推定できるが、現在は中央に描かれたスキーダム門も二つの塔が特徴的なロッテルダム門も残っていないのでかなり印象が異なる。 もともと地誌的に厳密に描いたものではないので、新教会の塔の位置をたよりにおおよその見当をつける程度である。 また、画家の目線は若干、町を俯瞰するような高い位置にあるので川のほとりからの眺めとはさらに異なった印象となる。

タイル博物館

資産家ランベルト・ファン・メールテンの邸宅に、彼の収集した16世紀から19世紀のデルフト焼きやタイルが展示されている。 壁面一杯に展示されたタイルでは、17世紀のポルトガルで流行するアズレージョ(絵タイル)の原点を見いだすことができる。 フェルメール作品のなかに迷い込んだような部屋の展示も興味深い。

デルフト焼工房

ロイヤルデルフトは、1653年の創立以来、伝統的な製法を守り続けているデルフト焼の工房である。 創立以来途絶えることなく続いている唯一の工房である。 見学ツアーで絵付けを始めとしたデルフト焼の行程を学ぶことができる。 絵付け体験もできる。 中国の陶磁器を模倣したのが始まりだが、日本の古伊万里や柿右衛門の絵付けなども影響し、デルフト焼独特の絵付けに発展している。 最近では、著名デザイナーの手による斬新な絵柄やミッフィーのデルフト焼も生まれている。レストランやショップも併設されている。

HOME   フェルメール、デルフト逍遥   フェルメールの足跡をたどる