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ピアノの詩人ショパン。ポーランドに生まれながらも、生涯の多くの時間をパリで過ごし、この町で最期を迎えた。国への思いを胸に抱きながら、数々の名曲を誕生させた作曲家の足跡をたどってみよう。
●故国を離れてフランスへ
1810年、ポーランドの小さな村で生まれたショパンは、ワルシャワ音楽院で学んだ後、20歳でウィーンに旅立つ。ところがその直後、当時ポーランドを分割支配していたロシアに対してワルシャワ市民が蜂起、結局鎮圧され降伏す
るという事件が起きる。ショパンはこの後、再び故国に戻ることはなかった。パリでの生活を始めたのは、1831年9月のこと。ポワソニエール通り27番地(け 別冊P.13-1D)に1年間住み、サル・プレイエルで初演奏も行った。やがて、リストの紹介で作家ジョルジュ・サンドと出会ったことが、ショパンの音楽人生を大きく変えることになる。強くひかれ合ったふたりは、冬はパリ、夏はサンドの別荘があるノアンで過ごすようになった。当時の住まいはオルレアン広場9番地(け 別冊P.7-3C)。同じ広場の奥、5番地にはサンドが住んでいた。サンドの庇護のもと、自由な創作活動の場を得たショパンは、『マズルカ』をはじめ、次々と作品を世に送り出す。ところが1847年、ふたりの関係は終わりを告げる。深く傷ついたショパンは創作意欲を失ったうえ、健康状態も悪化の一途をたどった。ヴァンドーム広場12番地(け 別冊P.24-2B)は、1849年10月17日にショパンが結核で亡くなった場所。ペール・ラシェーズ墓地(→P.176)に埋葬されたが、心臓だけは、彼自身の希望で、ワルシャワの聖十字架教会に納められた。
●小さな記念館「サロン・ショパン」
19世紀、パリに亡命したポーランド人たちはサン・ルイ島にあるランベール館にたびたび集い、ショパンも演奏を行っていた。同じ島内にある「ポーランド歴史文学協会」には、ショパンの遺品を展示する「サロン・ショパン」があ
るほか、コンサートも開かれている。このほか、音楽博物館(→P.170)にはショパンのピアノがあり、ファンならぜひ訪れたい。