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今月のお題は "あったかエピソード" です。
今回は、近所の方がイタリアの戦時中の様子を、今は亡きお父様とお母様のエピソードを交えながら、語って下さいました。
「あったかエピソード」前回までのまとめ:
2014年11月15日 "誰の日常の中にも必ずある、小さな愛のかけら(実体験編)" こちら
⇒ 筆者が実際に体験したあったかいエピソードをいくつかお送りしました。
2014年11月16日 "犬とおじいさんの友情物語(実話編)" こちら
⇒ おじいさんが大好きだった犬のお話でした。
戦火から逃れて運命の結婚物語:
私の父は、マルコ(Marco)といいます。
1919年生まれ、日本風に干支でいうと未年でしょうか。5人兄弟の3番目で、イタリア南部のベネスターレ(Benestare)という町に生まれました。
↑ ベネスターレの場所です。イタリア南部の州、カラブリア州レッジョ・カラブリア県にある、現在でも人口約2500人の小さい町です。
家は、鉄瓶などを造ったり、鉄製品を修理する商売をしていましたが、近郊からもお客さんが訪れる程、町では重要なお店でした。
16歳の誕生日を迎えたばかりのマルコは、「自分はこの小さな町から出て、もっと外の広い世界を見てみたい。」と思いました。周囲の反対もありましたが、海軍に入隊しました。そして生まれ故郷のこの町を後にします。
そして、第二次世界大戦中が勃発します。
1943年、マルコは24歳になっていました。
マルコはジェノヴァ(イタリア北部の町-上部地図の写真参照)の港から出発した船の中の地下にある機械室で、機械の整備工として働いていました。
港から出航してどの位経ったでしょうか。突然、船を衝撃が襲いました。船はどんどん傾いていきます。
船が沈んでしまう前に、一刻も早く甲板まで上がらなければなりません。
機械室で働いていた、マルコとマルコの友達は必死でした。
二人は船内を駆け上がり、やっと空が見え、船の外に出れたと思ったと同時に、船は沈没し始めました。
マルコの友達が先に海に飛び込みます。マルコは泳げませんでした。
しかしそうはいっていられません。絶望感に押し潰されそうになりながら、友達の元へ飛び込みました。友達はマルコを助けながら、陸まで必死に泳ぎ続けました。
マルコは初めて"生まれ故郷に帰りたい。"と思いました。
そして、マルコは脱走兵となりました。制服を着たままジェノヴァからイタリア最南端のベネスターレまで行き着かなければなりません。敵軍に見つかっても命はなく、イタリア軍に見つかっても"脱走兵"として射殺が待っています。
道すがら、同じ様に逃亡中の兵士に何度も会いました。
お互いに連絡先を教えあい、"もし俺達、生き残ることができたらまた会おうな。" と固い約束をして。
手元にはお金はもう残っていませんでした。
イタリアを南下して行く途中、とある田舎の町で一人のご婦人が声をかけて来ました。"若いそこの君、足を怪我しているから手当てをします。こちらへどうぞ。"と。
この婦人はマルコの怪我の手当てをすると、こういいました。"国鉄の社員だった夫が出兵したまま戻って来ないから、もうきっと駄目ね。これは夫の制服だから着なさい。これを着ていれば、うまく逃げ切れるかもしれないわ。"
マルコは海軍の制服を脱ぎ捨て、国鉄職員の制服を身に付けると、全ての列車に無料で乗車することが出来ました。そして何とかローマのテルミニ駅まで辿り着くことが出来ました。
テルミニ駅では大変なことが待っていました。人々が皆我先にと逃げようとしています。
構内ではドイツ軍が手当たり次第、若者を連行していくのです。
マルコは通りすがりの人に、"ここから南へ一番最初に出発する列車はどれですか?"と尋ねました。ドイツ軍に捕獲される前に一刻も早く、ローマから逃げなければなりません。
その人が教えてくれた、一番出発時間が早かった列車に乗ると、ネットゥーノ(Nettuno ローマの南にある町)という町に着きました。この列車の終点で、マルコは初めて訪れる場所でした。
実はローマから南下したことは南下したのですが、この電車は真っ直ぐカラブリア州方面へ行く路線ではありませんでした。
ネットゥーノに着いて、マルコは空腹で倒れそうになりましたが、生きていく為には働かなければなりません。
家々のドアを叩きます。どこの家も生活に貧窮していました。食べることもままならない状況では、他人の食い扶ちどころではありません。
どれ位、探したでしょうか。
ある日、家の仕事(ブドウ畑の仕事)と引き換えに、1日2食を提供してくれる家庭が見つかりました。(この頃、どこの家も1日2食を食べていられる時代ではありませんでした。賃金なしとはいえ、2食付きとは好待遇です)
数週間経った頃、アメリカ軍の猛攻撃が空から始まりました。大空襲です。爆弾が投下され、町は次々にさら地になって行きます。ブドウ畑の仕事どころではありません。一家には男の子が2人しか残っていなかったので、皆で手を取り合って、町の中心から少し離れた所にある、この家所有の防空壕に逃げ込みました。
そしていよいよ、ネットゥーノから僅か3kmしか離れていない隣町のアンツィオ(Anzio)のアンツィオ港からアメリカ軍が上陸し始めたという情報が入って来ました。
アンツィオの住民も、ナポリの親戚や友人を頼ってどんどん街を去っていきます。
マルコもこの町を去ることを決断しました。お世話になったネットゥーノのこの家族と全ての方へ、実家の住所を手渡し、"もし、戦争が終わって皆無事だったらまた会いましょう!" と約束をして。
ますます戦況がひどくなり、マルコを働かせてくれた裕福なこの家族も、マルコの出発から少し後に家族ばらばらに疎開することになります。
この家の一人娘のニーヴェ(Nive)は、母親の姉がナポリ近郊の女子修道院で修道院長をやっていることから、修道院に一人避難することになりました。ニーヴェは19歳になったばかりです。
彼女は一人ナポリ行きの列車に乗りました。列車ははち切れそうな程混雑していて、疎開する人でいっぱいです。
列車は昼間でなく、夜にこっそりとしかもゆっくりと走ります。
途中、元々体のあまり強くないニーヴェに異変が起き始めました。高熱が出て来たのです。
意識が朦朧として気絶してしまったのか、気がつくと朝になっていました。ニーヴェはびっくりしました。到着したのはナポリではありません。
レッジョ・カラブリア(Reggio Calabria)です。列車はイタリアの南端まで来てしまったのでした。
その時ニーヴェは、少しの間家でお世話してあげた青年マルコ思い出しました。所持品の中からマルコが書いて行った住所を必死に探します。マルコの生まれ故郷は、レッジョ・カラブリア(Reggio Calabria)県のベネスターレという小さな町です。駅で列車から降りる人に、次々とベネスターレの町について尋ねました。
すると一人の男性が、自分もベネスターレへ行く所だと答えました。しかしこの駅からベネスターレまでの公共交通機関はありません。
この男性は、ニーヴェの具合が非常に悪いことを見て覚りました。彼はベネスターレへ行く為、お百姓さんのロバを駅まで迎えに来る様に準備してありましたが、この男性はニーヴェを呼ぶと、そのロバの背に乗せました。ここから山を越え、丘を越えなければなりません。
ベネスターレに到着すると、すぐにマルコの家族から迎え入れられました。
ニーヴェの具合が相当に悪いものだったので、お医者さんが呼ばれました。
診断の結果、マラリアと判明しました。
戦禍で、しかもこんなに小さな町でマラリアの薬を手に入れるのはほとんど不可能に近いことでした。マルコとマルコの兄弟達は祈るような思いで、足を棒にして探し回りました。そして遂にキニーネ剤を手にしました。薬を与えられたニーヴェは少しずつ少しずつ、体調が戻り始めました。
こうして、ニーヴェはマルコの生まれ故郷で暖かく迎えられ、暫くの間、静養することとなりましたが、マルコとニーヴェの間には家族も誰も知らないところでひっそりと愛が芽生えつつありました。
そして、9ヵ月後にマルコとニーヴェは結婚します。マルコは25歳、ニーヴェは19歳でした。
二人はニーヴェの生まれ故郷ネットゥーノに新居をかまえると、それからちょうど60年間、お互い思いやりと愛情いっぱいの家庭を築きました。
本当はイタリア南部行きの列車に乗る筈だったが、ネットゥーノ行きの電車に乗ってしまったマルコと、こちらも本当はナポリへ行く筈だったが、マルコの故郷のイタリア南部の駅に到着してしまったニーヴェ。
運命とは、ちょっとした偶然から起きるのかもしれないと思いました。
この二人から生まれ、そして今回のお話を語ってくれた近所の女性は、両親はいつも "今を大切に生きなさい。明日はないかもしれないのだから。" と子供達にいっていたといいます。
日本人として、イタリアの現地の方からイタリア視点で見た第二次世界大戦の様子を聞く機会はあまりないと思うのですが、今回、体験談を快く引き受けて下さったご近所さんに感謝申し上げたいと思います。
マルコさんもニーヴェさんも10年前に他界されましたが、天国ではきっといつまでも仲良く過ごしていることでしょう。
11月お題"あったかエピソード"