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前回の国分・幻住庵を麓に降りて、旧東海道を自転車で15分ほど走ったところに「義仲寺」はあります。
ここはその名が表すように「木曽義仲」という平安時代末期の源氏の武将を祀る寺です。
歴史好きな方ならその名は知っていると思いますが、一般的には源氏と言えば「源頼朝」や「源義経」のほうがなじみ深いでしょうか。
「木曽義仲」=源義仲は平家追討に活躍した後に頼朝・義経との源氏同士での戦闘に敗れ、この大津で討ち死にしました。
後に義仲の側室・巴御前がこの地に義仲の墓所を作ったのが今の義仲寺です。
墓所を作った巴御前はたいそう長生きされた方で、義仲寺の入り口には「巴地蔵堂」があり、今でも長寿を願う人からの信仰の場になっています。
松尾芭蕉は木曽義仲を尊敬していたそうで、「骸は木曽塚に送るべし」と遺言していました。
その遺言通りに大阪で亡くなった芭蕉はその日のうちにこの義仲寺に運び込まれ、木曽塚(木曽義仲の墓)の隣に葬られたということです。
義仲寺の中に入ると時が止まったかのようなしっとりとした空気が流れています。
20の句碑が境内にはありますが、入ってすぐの右手には芭蕉直筆の句碑があります。
「行春をあふみ(おうみ)の人とおしみける」
と詠われており、芭蕉がいかに近江の人々が好きであったかを思わせる一句ですね。実際に芭蕉の門人36俳仙のうち12人が近江であった
ようで、ここ義仲寺境内にある無明庵でたくさんの門人に囲まれて過ごしたのでしょう。
境内の中央あたりにはいくつかの小さなお墓があるのですが、中心にやや大きめの墓が二つ、
手前が木曽義仲公の墓
そして、その奥にありました。
俳聖:松尾芭蕉はここに眠っているのですね。三角形が独特です。
遺言通りに木曽義仲の隣り合わせに葬られた芭蕉。今も愛した人々に囲まれて日々訪れる人たちと一句謳っているのかも・・・
境内の一番奥に「翁堂」という庵があります。
その天井には、
伊藤若冲の「四季花卉の図」が描かれています。
入り口近くの史料館には芭蕉がなくなる間際まで使っていた杖が展示されていました。
その他にも前回の「芭蕉が愛した大津(その1)幻住庵を訪ねて・・・」でご紹介した幻住庵を芭蕉に提供した門人の「菅沼曲翆」の墓や、巴御前の墓などもありました。
近江の国を愛していた松尾芭蕉・・・幻住庵や義仲寺以外にもあちこちのその足跡が残されています。
芭蕉が生涯に制作した俳句は確認されているもので980句とのことですが、そのうちの1割近くはここ近江の国の大津あたりで詠まれているらしい。
やはりかなりの大津好きだったんですね。
「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ巡る」
芭蕉の旅の人生の最後に選んだここ滋賀・大津の地にはそれだけの魅力が人や風景にあったのだと思います。
私もそんな感覚をもっと研ぎ澄ませて伝えられればと思っておりますが、伝わっておりますでしょうか・・・。