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イベント続きの秋のマカオ。マカオ最大のイベントと言えば何と言ってもマカオグランプリ。マカオと言えば「カジノとカーレース」と言われるほど、この国(地域)にとってもグランプリは絶対に欠かす事が出来ない重要なイベントです。事実コロナでロックダウンしている最中も、マカオグランプリは大幅に内容を変えて開催され、逆に市民が呆れ返ると言う事態も実際に起こりました。
ここは自動車レースの専門サイトではありませんから、マカオGPの歴史的側面から、このイベントが何であるのかをお伝えしたいと思います。
マカオGPは1954(昭和29)年に初開催。日本が誇る映画のキャラクター、ゴジラと同じ生まれ年です。
日本の自動車レースは戦前からありましたが、正式にグランプリの認定を取得した第一回日本グランプリは1963(昭和38)年。それを遡ること9年も前に、自動車産業すら存在しないこの地で、第1回マカオグランプリは開催されました。
つまりマカオグランプリは、アジアで最も古いグランプリレースなのです。
日本のグランプリが本田宗一郎と言う、のちに米国自動車の殿堂入りを果たすひとりの天才技師が創立したサーキットを舞台にして始まり、当時、戦後の復興政策もあり、今では吸収合併等で消滅したメーカーもありますが、多くの自動車メーカーがこのグランプリを自社製品のアピールする場と捉え、多くの参加者を集め、そこに詰めかけた観客数も20万人を超えたと記録されております。
一方のマカオグランプリはそれらとは明らかに違う方向で始まったと言う記録が見てとれます。
写真:マカオグランプリ博物館貯蔵の写真より
マカオに住む自動車愛好家、カルロス・ダ・シルバ、フェルナンド・マセド・ピント、パウロ・アンタスらがこんな事を語り出します。
「欧州では当たり前の様に開催されている自動車レースをマカオでも出来ないか?」
「マカオの海側の直線とコーナーの連続する山側の区間を組み合わせれば出来るはずだ」と考え、香港のASNに一通の手紙を書きます。
その手紙を受け取った香港のASN、当時は香港レーシングクラブでしたが、代表のポール・デュトワはコース想定図を見てこう思うのです。
「これはF1を開催しているモナコのモンテカルロのコースに近い。これなら開催できるはずだ!」と、マカオの警察を始めとする関係各所と折衝を始めます。
自動車レースが生業の筆者からすると、相当大きな勘違いと思い込みでしかないと思う様なきっかけではありますが、歴史を振り返れば、この思い付きのようなアイデアは何一つ間違えてはいなかった訳です。
この様な経緯で第一回マカオグランプリが1954年10月30日に開催され、香港在住のポルトガル人のエドアルド・デ・カルバルホがステアリングを握るトライアンフTR2が優勝しました。この最初のマカオグランプリは4時間耐久レースとして開催され、優勝車であるトライアンフTR2は現在でもマカオグランプリ博物館に展示されております。
モータースポーツの専門メディアは「マカオグランプリはその昔はフォーミュラカー(タイヤが剥き出しのF1の様な一人乗りのレースカー)のレースにスポーツカー(どちらかと言うと耐久用)まで混走で走っていた」と言う記述が見られますが、この歴史を紐解いていくとその話しはむしろ逆で、最初はスポーツカーの耐久レースがあり、そこへあとからフォーミュラカーが入ってきた事が確認できます。
なおこの耐久レースに「レーサーが足りないから」と言う理由で駆り出された一人の自動車愛好家の青年実業家がおりました。
その人物こそ、現在では「マカオグランプリの父」と呼ばれる、マカオグランプリ中興の祖、香港・マカオを代表するレーシングチームであるセオドールレーシングの創立者テディ・イップ・シニアなのです。
そしてその「モナコのモンテカルロのコースに似ている」と言う思い込み?とも言えるコースこそが、現在でも明日のF1ドライバーを目指す若いレーシングドライバー達が超えるべき壁となっている難攻不落のレーシングコース、一周6.2kmの「ギア・サーキット(英語表記:Guia Circuit/国際グレード2規格取得コース)」なのです。
写真提供:CPM / Gold Wolf Racing Ltd.
なおこのマカオグランプリを生み出すきっかけを作った手紙の現物は、マカオGPの歴史を研究している香港在住の歯科医師でカメラマンの英国人、フィリップ・ニューサム氏が現在でも保管しております。
*ASNとは各国に存在する自動車連盟の略称(Authority Sport Nationale)で、自動車レースの統括を行ってる団体です。日本でJAFがそれにあたります。
そうは言ってもマカオや香港に住む愛好家が、自慢の愛車でレースを楽しむ。それも相当ムチャクチャなコースで、現代でも「良くあのコースでレースをやるよ」と言われるギア・サーキットで開催されるマカオグランプリ。
この段階ではグランプリと名が付くものの、アマチュアのレースイベントでしかありませんでした。
ところが1967年、大きな潮流の変化が生まれます。
香港にTVB(香港テレビ放送局)が開局。最初の番組として選ばれたのがマカオグランプリの生中継でした。
この生中継は1967年11月19日に放映されたと記録されております。
これ以降、マカオグランプリは毎年11月の第三週目の週末に開催される事が定着しました。
この事がマカオグランプリの存在をマカオの国外へと広めて行く大きなきっかけとなり、その反応は顕著に表れます。
1970年代序盤頃から日本のバイク・自動車メーカーがアジア圏の販路拡大のPRツールとしてマカオグランプリに目をつけ始めます。これらがのちに「マカオの虎」の異名を持つ事になる日本人レーサー「舘 信秀(現トムス会長)」やアジアモータースポーツ先駆者の元トヨタワークスドライバーの見崎清志選手の活躍の場となっていきます。
特にトヨタは香港の輸入代理店クラウンモーター(皇冠汽車)と組んでマカオグランプリに力を入れ、舘選手のドライブする黄色いセリカ1600GTが1974-1975年にツーリングカーで争われるギア・レースに2年連続で優勝。
「アジア人が白人に勝てる」事を証明し、香港やマカオに根強い日本人選手と日本車のファンを生み出した事は歴史が証明してくれています。
このクラウンモーターの努力は現在の香港・マカオの自動車事情を見れば、なぜトヨタがあそこまで地元の人々に支持されているのか?が理解できると思います。昨日今日、香港トヨタのセールスマンが頑張っただけの話しではないのです。
そして1975年、マカオ市政庁はポルトガル自動車クラブ(ASN)に働きかけ、マカオグランプリの開催権をマカオ市政庁に戻すように働きかけると同時に、このイベントを国際イベントにする様にポルトガルASNを通じてFIAへ申請。マカオグランプリは正式にFIA公認の国際自動車レースとしての承認を得て、カレンダー登録されました。
写真提供:株式会社トムス
1970年代中盤よりFIAが提唱したパンパシフィック構想。
太平洋沿岸諸国で統一ルールを作り、日本やマカオ、オーストラリアまでもその中に組み込む壮大な計画が持ち上がりました。それにあわせて導入された車両レギュレーションがフォーミュラ・パシフィック(以下、FP) 。
北米や英国で既に導入されていたフォーミュラ・アトランティック(以下、FA)とほぼ同じ車輌(F2またはF3の車体を使用。後にFP専用シャーシも作られた)で名称を変え、多くの自動車メーカーが持つ市販1600ccのエンジンをベースにフルチューンする事でレーシングエンジンに仕立て、自動車メーカーの支援を取り付けようとしました。しかしこのコストの掛かるエンジンの仕様は結局受け入れられず、1980年代初頭にはFPの廃止が決定。結局、FPは1977-1982年までの短命で終わりました。
そうなると次はどの車輌にするのか?と言う事が議題となり、FIAとマカオ側での話し合いを続けますが、FPより格下のF3を薦めるFIAと、FPより上のクラスであるF2を希望するマカオ側でなかなか折り合いが付かず、長い協議となりました。
最終的に「コースの安全性」を主張するFIAの主張を覆す弁を持たないマカオ側はF3採択を承認。これはマカオ側にとって全く希望通りでは無かったと言うのが、つくづく歴史や運命とは面白いモノだな、と感じずにはいられないポイントです。
写真提供:Gold Wolf Racing Ltd.
1983年。
マカオASN/政府にとってはやや不満なF3初開催であった事は容易に想像できる空気の中での開催だったマカオグランプリ。
同年のシーズンオフまでF1に参加していたテディ・イップ率いるセオドールレーシングは、この年から欧州から来るF3チームとジョイントし、セオドールレーシングとする現代にも通ずるネーミングライツ形式をこの時代に編み出します。テディ・イップ・シニアの目論見は当たり、この年の英国F3チャンピオンを獲得したばかりの若きブラジリアンレーサー「アイルトン・セナ・ダ・シルバ」はこのマカオグランプリで他を寄せ付けない圧勝で、1983年のグランプリを完全制覇。
そのまま翌月にはいくつかのF1のテストを経て、翌年F1ドライバーとしてデビュー。F1デビューからわずか6戦目のモナコグランプリでは土砂降りの雨の中、あわや優勝と言うところまで上り詰め、この事が大きく作用しマカオグランプリは「新人レーサーの世界一を決める決定戦」として位置付けられるようになりました。
このマカオを代表するイベントはその存在はおろか、今と違うマカオになっていた可能性は否めません。
この偶然が折り重なった様な歴史で、結果的に今のマカオが存在している事は間違いのない事実です。
自動車メーカーと言うのが最初に有きで始まった日本のグランプリ。
そこに人がいて場所があってクルマがあるから始まったマカオのグランプリ。
それは70年経った今でもその基本は変わっていないように感じます。
写真提供:セオドールレーシング
マカオグランプリ博物館
リスボアホテルグループを運営するSJMリゾーツが、マカオグランプリ70周年を記念してグランプリの歴史、そしてそれと共に歩んできたセオドールレーシングの足跡を動画にしました(英語/字幕:中国語)。
現マカオ旅遊局長のマリア・ヘレナ・デ・セナ・フェルナンデス(Maria Helena de Senna Fernandes)長官がマカオグランプリ博物館を紹介しております。
セオドールレーシング創立者でありマカオグランプリの父と言われたテディ・イップ・シニアの子息である現セオドールレーシング チームプリンシパルのテディ・イップ・ジュニアを迎え、マカオグランプリ博物館にて前マカオ旅遊局長 ジョアン・マヌエル・コスタ・アントゥネス(João Manuel Costa Antunes/中国名:安棟樑)と共に、マカオグランプリの始まりから現在に至る足跡を語っております。
リスボアホテルグループを運営するSJMが制作したこの動画は、今回のこの記事をまとめたものになっております。
動画使用許諾:澳娛綜合SJM Resorts
元マカオ政府旅遊局のジョゼ・エストニーニョ会長を中心にマカオ政府OBやポルトガル領事の関係者らが集まって出来たマカオ政府公認団体「Associação para a Promoção e Desenvolvimento do Circuito da Guia de Macau(略称APDCGM)」
現在、APDCGMは世界で唯一、70年間コースレイアウトの変わらない(街中のコースなので変わり様がない)ギア・サーキットをユネスコの登録遺産へと目指しております。
年に数回、シンポジウムやアートの展示会などを行い、市民へギア・サーキットのユネスコ登録への機運の高まりを作るべく広報活動をしております。
毎年11月の第三週に開催されるマカオグランプリ。
来年、あなたがこのマカオグランプリの会場にいる時に、ここに書いてある、冗談の様な本当の事実に少しだけ想いを巡らせていただければ、また違ったマカオの側面が見えるかもしれません。