【岡山】国境の「八幡の渡し」 ~岡山市建部町~

公開日 : 2023年10月15日
最終更新 :
筆者 : mami

 こんにちは~。岡山特派員のmamiです。今月は、岡山市建部町をご紹介しますね。
 建部町は平成の合併の時に御津郡建部町から岡山市に合併されました。

 建部町の福渡は「行こうか岡山、もどろか津山、ここが思案の深渡し」と古くから俚歌に歌われ、岡山(備前)と津山(美作)のほぼ中間地点にあります。江戸時代、天領(幕府直轄地)だった福渡には、「八幡の渡し」と呼ばれた高瀬舟の船着場跡が残っていると聞き行ってみました。八幡の渡しの西岸・建部は、備前池田藩、東岸・福渡は美作で、境界の旭川のまん中には、国境の杭があったといいます。現在は「福渡」も建部町になっていますが、調べてみると古くは久米郡福渡村福渡で美作に含まれていたことがわかりました。

 鉄道好きの夫の話しでは、岡山から津山をつなぐ中国鉄道(JR津山線)は福渡を流れる旭川で途切れ、「八幡の渡し」で川を舟で渡っていたそうです。
 蒸気機関車を降りて、船着場まで歩き、そこから舟で対岸へ渡り、歩いて駅まで行き機関車で目的地へ向かう…。
なんとも風流な風景が思い浮かべられるけれど、雨や猛暑の日は散々だったでしょうね。

 江戸時代は、水運の要所として栄え高瀬舟が勝山と岡山を結んでいました。下りは川の流れに乗るので1日で岡山へ到着し、勝山へは流れに逆らうので帆や棹や櫓だけでは進めず、なんと綱で引き3~5日かかったそうです。
最盛期には200隻もの船が往来していたとか!
昔の交通の大動脈は河川だったんですね。 

 旭川にかかる歩行者専用の「幸福橋」。水かさが増えると水面下に潜ってしまう潜水橋です。
何度も流され、2018年の西日本豪雨の時も流され、新しく架け替えられました。

 船着場(川湊)から少し下流の建部町文化センターに復元された高瀬舟(同寸大)が残っていました。昭和58年くらいまで屋形船として航行していた舟で、高瀬舟一槽で約100俵の米を運べたそうです。
先ほどの「行こうか岡山、もどろか津山、ここが思案の深渡し」の「深渡し」は、この場所が旭川の深い渕だったことから「深渡し」と呼ばれ、福渡の語源と言われているそうです。

 また、灯台も復元されていました。船着場(川湊)や危険な場所に建てられ、航路を案内する重要な役割を持っています。建部町鶴田に現存している灯台を模しています。

筆者

岡山特派員

mami

岡山生まれの岡山育ち。岡山市内在住の生粋の「おかやまっ子」です。

【記載内容について】

「地球の歩き方」ホームページに掲載されている情報は、ご利用の際の状況に適しているか、すべて利用者ご自身の責任で判断していただいたうえでご活用ください。

掲載情報は、できるだけ最新で正確なものを掲載するように努めています。しかし、取材後・掲載後に現地の規則や手続きなど各種情報が変更されることがあります。また解釈に見解の相違が生じることもあります。

本ホームページを利用して生じた損失や不都合などについて、弊社は一切責任を負わないものとします。

※情報修正・更新依頼はこちら

【リンク先の情報について】

「地球の歩き方」ホームページから他のウェブサイトなどへリンクをしている場合があります。

リンク先のコンテンツ情報は弊社が運営管理しているものではありません。

ご利用の際は、すべて利用者ご自身の責任で判断したうえでご活用ください。

弊社では情報の信頼性、その利用によって生じた損失や不都合などについて、一切責任を負わないものとします。