シルクロードのユダヤ人 ブハラユダヤ人
ウズベキスタンが多様な民族や宗教、文化を包摂していることは、本ブログで示してきた通りです。当のウズベキスタン自体、「多民族国家」というイメージを売りにしているようなところがあります。実際、ナウルーズのお祭りの際の祝典では、ウズベク人がウズベク風の衣装を、ロシア人がロシア風の洋服を、朝鮮系の高麗人がチマチョゴリを着て登場し、ダンスを踊って「多民族共存」を演出したりします。
しかしソ連崩壊に伴う独立以降、以前よりも人口に占めるウズベク人の割合が高まり、現代のウズベキスタンは「ウズベク化」が進んでいるといえます。かつてウズベキスタンに住んでいた民族の中には、その多くが国外に移住したものもあります。
先日、日本から来た方が、「今泊まっている宿の近くにシナゴーク(ユダヤ教の会堂)がある」と教えてくれました。12月某日、その近くを偶然通りがかったので、試しに探してみることにしました。
途中まで来たところにあった外国大使館の警備の警官に、「この近くにシナゴークがあると聞いたのだけれど...」と聞いて、場所を教えてもらい、その通りに行くと、ありました。ユダヤ教のシンボルの燭台を門の上に据え付けたシナゴークです。
「タシケント・ユダヤ教宗教協会」というロシア語と、ヘブライ文字の看板が出ています。
イスラームのモスクやロシア正教の教会はよく見かけるのですが、ウズベキスタンでシナゴークは初めてだったので、珍しくてうろうろしていたら、関係者らしいおじさんに「入りなよ」と言われ、お邪魔することにしました。
門をくぐったところの建物の様式は、モスクに似ているようにも思えました。ただ、入って正面の壁面に、「タシケント・ブハラユダヤ人正統セファラディムシナゴーク」と書かれています。小さな広場の真ん中にある噴水は、水が枯れているのですが、干上がった底にはモザイクでユダヤ教のダビデの星が描かれています。案内してくれたおじさんに、帽子をとって挨拶しようとすると、「ここはシナゴークです。帽子はとらなくて結構です」と言われました。
せっかくなので、いろいろ訊いてみました。
「特派員:今、ウズベキスタンにはシナゴークはどれくらいあるのですか?」
「タシケント市内に3つ。ここのシナゴークがセンターとなっています。あと、ブハラにもありますし、コカンドなどフェルガナ盆地の都市にもいくつかあります」
「特派員:ユダヤ人の数は?」
「250家族ですね」
そんな風に話していると、「いやいや、アシュケナジー(セファラディムとは異なる、ユダヤ人の別のグループ)も含むと、もっといるよ」と、建物の中から出てきたおばさんが割って入ってきました。「中に入りなよ」と、今度はそのおばさんが招き入れてくれたので、建物の中に入ることができました。
入れさせてもらった部屋の壁には、洋服姿とウズベク風の服装の、二人の老人の写真と肖像画が掛けてありました。ウズベク風の服装の老人のほうは、見た目こそ中央アジア風ですが、「ポルヴァノフ・イスラエル・ホッジ」と、名前に「イスラエル」が入っています。「横にあるあの写真は?」と、おばさんに訊いてみると、「ダゲスタンの、山岳ユダヤ人です」ということでした。
(※特派員註:「山岳ユダヤ人」コーカサスに古くから住んでいるイラン系のユダヤ教徒の民族。1万数千人程度いるとされ、ロシア連邦ダゲスタン共和国やアゼルバイジャンなどに多く住んでいたが、ソ連崩壊後、大多数がイスラエルに移住した)
お礼を言って、帰る途中、中庭にある「謝辞」と書かれた碑が目に留まりました。シナゴークの運営などに貢献したと思しき個人と団体名が記してあります。団体名の中には、「世界ユダヤ協会」「タシケント・ニューヨーク財団」といったものがありました。
中央アジアにはかつて、「ブハラユダヤ人」と呼ばれるユダヤ教徒が数多く住んでいました。イランやアフガニスタンから移住してきた彼らは、ペルシャ語(タジク語)を話し、8-9世紀ごろから中央アジアに居住していたとされています。ソ連時代に発行されたウズベクソヴィエト社会主義共和国アトラスによると、1979年当時、ウズベキスタン全土で約9万人のユダヤ人が居住し、そのうちおよそ5万人がタシケント市に住み、市の人口の約3%を占めていたそうです。彼らの多くは商業などに従事し、財力があり、ほかの民族からは「ユダヤ人は力仕事などしない(したがらない)」といったイメージが持たれていたそうです。
ソ連末期のペレストロイカ期から独立後にかけて、国外移住がしやすくなってくると、ブハラユダヤ人のほとんどがアメリカやイスラエルなどに移住していきました。その規模は、ペレストロイカ期に入る前の移動も含めると、それぞれの移住先に対して数万に及ぶようです。少ない数字に思えるかもしれませんが、イスラエルのユダヤ人の人口が500万人程度なので、人口比率を考えるとインパクトがある人口移動であったかもしれません。
ちなみに、ブハラには、かつてのユダヤ人富豪の住居を改装したホテルがあります。ブハラを訪れる際には利用してみるのもいいかもしれません。
http://www.emirtravel.com/uzbekistan/emir-hotel.html
また、ニューヨークのクイーンズ区には、「ブハラン・ブロードウェイ」と呼ばれる一画があり、4-5万人のブハラユダヤ人が集住しているそうです。そこでは、ブハラタジク語やロシア語が飛び交っているほか、ウズベキスタン風のノン(パン)を焼くタンディール窯を備えたパン屋や、中央アジア風レストランなどが軒を連ねているそうです。ぜひ一度訪れてみたいものです。
では、Ko'rshamiz! (またお会いしましょう!)
参考文献:
NHK「新シルクロード」プロジェクト編『NHKスペシャル 新シルクロード―激動の大地を行く〈上〉コーカサス・中央アジア・アラビア半島』日本放送出版協会、2007年
小松久男ほか編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年
シェルボイ・エルタザロフ著、藤家洋昭監訳、小松格・吉村大樹訳『ソヴィエト後の中央アジア―文化、歴史、言語の諸問題―』大阪大学出版会、2010年
立山良司編著『イスラエルを知るための60章』明石書店、2012年
ティムール・ダダバエフ著『社会主義後のウズベキスタン 変わる国と揺れる人々の心(アジアを見る眼)』アジア経済研究所、2008年
Атлас Узбекской ССР, Главное Уплавнение Геодезии и Картографии при Совете министров ССР, Москва, 1985
インターネット記事など:
http://unreachednewyork.com/wp-content/uploads/2012/11/Bukharan-Jews-Profile-Final.pdf
https://share.america.gov/far-home-still-connected-american-diaspora-communities/
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