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「ガラシャ」を思う紫陽花・勝竜寺城

Akio

Akio

京都特派員

更新日
2018年6月17日
公開日
2018年6月17日
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《紫陽花咲く勝竜寺城》

長岡京市の勝竜寺城です。

戦国時代において、勝竜寺城のある長岡京市辺りは、京都防衛の拠点として

重要視されていました。

現在の勝竜寺城は、足利尊氏の命により細川頼春によって、暦応2年(1339)に築城された勝龍寺城跡を再整備し、

平成4年に都市公園の「勝竜寺城公園」として作られています。

そしてここは、細川忠興・細川ガラシャ(明智光秀の娘)夫妻ゆかりの城としても有名で、

園内には2人の像が建てられています。

また「日本の歴史公園100選」にも選ばれ、地域に愛されるスポットとなっています。

六月半ばの今、園内では紫陽花が見頃を迎えています。

お城の前の通りは「ガラシャ通り」。

通り名は、細川ガラシャの花嫁行列が通ったことが由来のようです。

勝龍寺城は、明智光秀の娘であり、細川忠興の正室でもあった「細川ガラシャ」(1563~1600年)が

幸福な新婚時代を過ごした所です。

勝竜寺城の建物の中は、1階は休憩室、2階は展示室になっています。

展示室では、勝龍寺城跡の発掘の様子や出土品の展示など、様々な勝龍寺城の資料を見ることが出来ます。(無料)

2階に展示されている屏風絵からは、

玉お輿入れ(嫁入り)の様子が伺えます。

《玉からガラシャへ》

◇1563年。

明智光秀の三女としてガラシャは生まれました。

名は玉(珠)もしくは玉子(珠子)と言います。

◇1578年。

織田信長のすすめにより、16歳で勝龍寺城城主・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。

忠興と玉は美男美女のほまれ高く、似合いのカップルだったと言われています。

夫婦仲も良く、3男2女に恵まれました。

◇1582年。

父・明智光秀が本能寺の変を起こし、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れると、

秀吉に遠慮した夫の忠興によって幽閉されます。

◇1584年。

秀吉の計らいで忠興と珠は復縁し、忠興のもとに戻ります。

◇1587年。

キリスト教に入信。

ガラシャの洗礼名は、その時から。

◇1600年。

関ヶ原の戦いに際し、石田三成から人質として大坂城に入ることを強要されますが

承知せず、家老の小笠原小斎に胸を突かせて、亡くなられています。

細川ガラシャさん。才にも文にも長けた、美しい女性だったそうです。37年の短い生涯でした。

ガラシャの壮絶な死は、石田三成にも衝撃を与えました。

この事件があり、彼は諸大名の妻子を集めて人質とすることをやめたそうです。

一方、忠興は妻の死を深く悲しみました。

細川ガラシャ。

辞世の句は・・・・・

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

418年の時を越えて 心に響く言葉です。

《長岡京ガラシャ祭》

長岡京市では、毎年11月に「長岡京ガラシャ祭」が行われています。

「長岡京ガラシャ祭」では、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が細川忠興に

輿入れ(嫁入り)する様子を再現した「お輿入れ行列」や、古墳時代から江戸時代までの有名な

歴史の人物が登場する「歴史文化行列」、「町衆祝いの行列」など様々な人が勝竜寺城公園に向けて練り歩きます。

《勝竜寺城》

〇 所 京都府長岡京市勝竜寺13-1

〇 お休み 毎週火曜

〇 料金 無料

〇 アクセス JR京都線「長岡京駅」から南へ徒歩10分

〇 周辺の見所 長岡天満宮 光明寺 楊谷寺 恵解山古墳

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