特集「今、こんな旅がしてみたい!」
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2019年10月31日、日本中に衝撃的なニュースが走りました。それは、沖縄を象徴する首里城、その正殿が無残にも焼け落ちる姿。多くの沖縄県民が涙した1日からおよそ7年。2026年秋、ついに首里城の復元が完成予定です。焼損後から「見せる復興」をテーマに復興作業を一般に公開し続けてきた首里城。再建した姿を見に訪れてみませんか?
1429〜1879年まで、沖縄は「琉球王国」という独自の統一国家でした。元首は琉球国王で、その居城として存在していたのが首里城。城郭は小高い丘の上に建ち、西(いり)のアザナと呼ばれる展望ポイントからは那覇の町から港、晴れている日には慶良間諸島までも一望できます。
「うちなーんちゅ」と呼ばれる沖縄の人々にとって、首里城は昔も今も心のよりどころでありアイデンティティそのもの。2019年の正殿焼損は、今も人々の心に深い傷となって残り、その復興が望まれています。
首里城の創建についてははっきりとわかっていませんが、琉球王国成立前、14世紀末には築かれていたとされています。当時は3つの勢力が覇権を争う三山時代。首里城はやがて統一王朝を作る中山(ちゅうざん)の居城であり、統一後に首都に定められました。15世紀初めに内郭、16世紀初めに外郭が完成。建築されてから、失火や争い、また1945年の沖縄戦でのアメリカ軍による攻撃など4度にわたり焼失、再建を繰り返しました。戦後、1989年から本格的な復元工事を開始し、1992年に主要部分を含む一部を公開。その後、9回の部分開園を経て、2019年に復元が完全に完了しました。しかし、完了直後の2019年10月31日の火災により、正殿を含む9棟が焼損してしまいました。
正殿は焼損後、すぐに復元工事を開始。火災から7年後の2026年秋に復元を完了し、かつての姿を取り戻す予定です。
首里城の外郭から内郭へと入る場所にある朱塗りの門で、中国の牌楼(ぱいろう)という伝統的な建築様式で建てられています。首里城を象徴する門として知られ、2000円札にもその姿が描かれています。
別名を「首里門」、庶民の間では上のほうにある美しい門という意味で「上の綾門(いいのあやじょう)」と呼ばれました。守礼門から先は歓会門(かんかいもん)、瑞泉門(ずいせんもん)、広福門(こうふくもん)、奉神門(ほうしんもん)と4つの門を抜けて正殿へと至ります。
総合案内所から守礼門をくぐってすぐ左手にある石造りの建物。御嶽(うたき)という沖縄の伝統的な礼拝所であり、神々が降臨する聖地です。琉球王国時代、国王は外出する前にここへ立ち寄り、安全を祈願したとされています。琉球石灰岩で作られた門には扉が設けられていますが、これは人が通るためのものではなく、神への礼拝の門を意味しています。琉球王国のグスクおよび関連遺跡群のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されています。
首里城の中核にして、琉球王国最大の木造建築。日本と中国の建築様式を併せもちながら、通気に気を使った2層3階建ての建物や装飾された龍柱など、琉球独自の形式も取り入れられています。1階は下庫理(しちゃぐい)で国王が政治を行う場所、2階は大庫理(うふぐい)と呼ばれ、さまざまな儀式が行われる場所でした。3階は通気のための屋根裏部屋。2019年に焼損した正殿は、沖縄戦での焼失前、18世紀に再建されたものを復元したもので、今回新たに復元されるものもそれと同じ予定となっています。
14世紀初め、沖縄では3つの勢力が争う三山時代が開幕。各勢力は按司(あじ)という有力者を中心に国を作り、城(グスク)を拠点に地方を治めました。3つの勢力は支配地方により北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)と呼ばれています。15世紀になると中山の尚巴志王(しょうはしおう)が急速に勢力を増し、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼし、琉球王国統一を成し遂げました。17世紀初めには薩摩藩の侵略を受けその支配下に置かれますが、王国体制は維持され、1871年の廃藩置県による琉球藩設置まで450年にも及び国家的独立を貫きました。
推薦者:田中健作(地球の歩き方 沖縄編 編集担当)