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先日、80代のおじいちゃんから聞いた昔話。「うちの先祖、ベーコンアイランドでジャガイモを作ってたらしいんだ」。美味しそうな島の名を頼りに調べてみると、イーストベイ・ストックトン郊外に実在し、20世紀初頭のポテトキング牛島謹爾(うしじまきんじ)の名にたどり着いきました。今回は移動の旅ではなく、少しだけ時間をさかのぼる旅の話し。
1893年、28才の牛島謹爾が足を踏み入れたストックトン周辺のデルタ地帯は、まさに湿地でした。川が入り組み、水はけは悪く雨が降れば畑は湖になる。農業に向く土地とは到底言えなかったようでした。
牛島は、その「やっかいな水」の対策に乗り出しました。堤防を築き、水路を掘り、排水と灌漑の仕組みを少しずつ整えていった。現在なら機械で一気にできる作業を、人の手で、気の遠くなるような時間をかけて進めた。そうして湿地は畑に変わり、ジャガイモが植えられるようになった。温暖な気候と、養分をたっぷり含んだデルタの土壌。相性は想像以上に良く、見事なジャガイモができました。収穫量は増え、品質は安定し、取引先は徐々に広がっていく。やがて彼は「ポテトキング」と呼ばれる存在になりました。その称号の裏には、長靴で泥に沈みながら、少しずつ水と土地を制していった地味で根気のいる日々があった。
牛島のすごさは、よい畑づくりだけでは終わらなかったことです。彼は、ジャガイモをただの農産物で終わらせなかった。当時、市場に出回るじゃがいもは、良くも悪くも“だいたい同じ”扱いで、安いほうが売れる、そんな世界だった。
牛島は、選別を試み、形・傷・サイズ・味の基準に満たないものは出さない。更に「牛島ポテト」「シマのポテト」と名前をつけて販売。いまで言うブランド・ポテトにしました。料理店に自らでジャガイモを持ち込み、「試食してほしい」とその場で調理してもらったというから、かなり積極的な売り込み。
そして「良いものは、安くしなくても売れる!」。これが結果的に“信頼の味”となっていったのです。お客さんはただジャガイモから、「牛島のジャガイモ」を選んでいくようになっていった。
荒れ地を畑に変え、作物をブランドに変えた男。やっていることは泥だらけなのに、発想はどこかマーケターの先駆けっぽくないですか?
天井川という川をご存知でしょうか?川底が周囲の土地より高くなってしまった川のことです。でき方は、土砂が川底たまります→水位が上がっていきます→それに対応するよう堤防を高くします→また土砂がたまるります…この繰り返しで、川は少しずつ“見上げる位置”になっていきます。もし決壊すれば、被害は想像を絶しますね。
牛島の出身地とされる筑後地方(福岡県南部)もまた、水と向き合ってきた土地だったようです。筑後川の氾濫、有明海の干拓、用水路と水門。この地方方達は昔から水を防ぐだけでなく使いこなす知恵者もたくさんいました。
ストックトン近隣の湿地改良と、筑後の農地づくり。規模も風景も違いますが、水を読んで、畑を作る点では、何か共通しませんか。牛島が筑後の水との付き合い方を、DNAレベルで応用していたなんて話も伝わっていますが、後継者さんたちの先人に対する尊敬を込めた“かもしれない話”です。
一方、確実に存在したのが、堤防を築き、水路を掘った名もなき作業員さんたち。日本人移民だけでなく、多くの人々が泥にまみれ、水と格闘しながら畑を作っていきました。ポテトキング言われていますが、その王国を支えたのは名もなき作業員さんでした。
どーしようもない湿地。先人たちは泥にまみれながら畑を拓き、育ったジャガイモに「名前」と「誇り」を与えました。20世紀初頭、まだ“ブランド”という認識があまりなかった頃に、品質で選ばれる作物を生み出した。一袋のジャガイモの向こうには、土地を信じ、工夫を重ね、価値を育てた人々の挑戦がありました。ベーコンアイランドは、そんな無名戦士の努力が実を結んだ島でもありました。