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緑が美しい 金戒光明寺です。
場所は、JR 京都駅から 市バス5番で 東天王町下車 徒歩15分・・・・・・・
市バス100番では 岡崎道下車 徒歩10分です。
地下鉄では、東西線 蹴上駅から徒歩30分です。
金戒光明寺の塔頭『西雲院』に眠る 会津藩士の墓を訪ねて、行って来ました。
金戒光明寺が 大きな時代のうねりの中に 出て来たのは 幕末の頃でした。
江戸時代末期の文久2年(1862年)・・・幕末の京都は 尊皇攘夷の風の中・・・
長州藩や土佐藩等の過激浪士が 天誅と称して 過激な行為を 繰り返していました。
江戸幕府は 従来の京都所司代と京都町奉行に加え、新たに京都守護職を置きました。
役職には 会津藩主 松平容保(かたもり)が 任命致され 約千名の藩士を率いて
上洛し本陣としたのが 金戒光明寺でした。
金戒光明寺が、京都守護職本陣と された理由としては・・・
1.城構えであること
2.要所に近い(御所 各藩邸など)
3.千名の軍隊が駐屯できる
と・・・・・・・言う事から選ばれた様です。
この時に、会津藩の お抱えとして 新撰組も 誕生しています。
三重塔に続く 長い石段です。周りは 墓地です。歴史のある墓地ですから
ここには 春日局さんの供養塔や 大河ドラマの お江さんの供養塔や・・・
侠客 会津小鉄さんの お墓もあります。
お墓が並ぶ中を通って 会津藩士の お墓へと続いています。
会津藩は 着任当初は、統制のとれた働きで 京の町の治安の回復を致しました。
新撰組も 警察業務にあたり 頑張っていました。
しかし 時の流れは、幕府方になく 情勢は 悪化の一途を辿りました。
時は、池田屋事件・・・禁門の変を経て・・・・大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いへと
流れて行きました。
会津藩は 賊軍(幕府軍)の汚名を着せられ 京を追われる事に なりました。
この時 会津藩の多くの方が 亡くなられています。
会津藩士のお墓に来ました。
お墓は 文久二年~慶応三年の五年間に、亡くなられた 二百三十七名の墓標・・・
鳥羽伏見の戦いで亡くなられた 百十五名の墓標です。
幕末の戦いの時・・・新政府軍は、戦死した会津藩士の 遺体を動かしたり
埋葬する事を禁じた為、遺体は 路上に 放置されていました。
見かねた人の手により 遺体を収容し・・・荼毘に付し ここに お墓が建てられました。
お墓には 会津墓地の由来の言葉がありました。
お墓は この日も 綺麗に 掃き清められていました。
お墓に、御写真が 飾られて いました。
お墓を囲むように 飾られていた 写真は 美しい会津城の御写真でした。
遥か遠く離れた地で亡くなられた 多くの魂に 手向けられた
故郷・・会津城の御写真です。
緑 美しい・・・・金戒光明寺の塔頭『西雲院』に眠る 会津藩士のお墓でした。