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伊賀国・忍者(其の三)の巻
忍者の里・・・伊賀。
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伊賀市役所や忍者博物館も近い(上野市駅)周辺も忍者でいっぱいです。
探せば、まだまだ忍者が、街のあちらこちらに見受けられます。
前回に書いた通り、伊賀市は(忍者市)を宣言している位、忍者の街なのです。
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本当に忍者ものは様々な分野にわたっています。
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偶然なのですが、私の手元に2枚の切手シートがあります。
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以前、郵便局でなんとなく買ったものです。
(今回、少し調べてみると2009年4月24日から2009年10月23日に*地元の郵便局にて、3000部売られていたようです。ということは、その時期に私自身は郵便局に行っていたようです。)
*地元郵便局・・・伊賀市、津市一部、松坂市、名張市、多気郡の多気町と大台町と明和町、限定販売。あと郵便局通販ショップでも販売。
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今回は『忍法・記憶術』を数ある忍法の中から選びました。
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忍者は、本来、ありとあらゆる術と手立てを修行により、身に付け、用意して、事にあたりました。
忍術しかり、それに伴う武器や道具、食料、様々な状況での行動様式・・・などなど、多種多様多岐にわたりました。
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それらを馳駆ししての・・・忍者活動・・・彼らの本来の目的の一つである情報収集。
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その貴重な情報収集は紙に普通に書き残すことは出来ませんでした。
なぜなら、関所や検問所など、忍者だと分かる証拠物を持っていてはなりません。
目的に達する前に捕まってしまいます。
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またその情報を聞き取った床下や天井裏なども、すぐにメモを取ることが出来ない場所でした。
潜伏期間が長期であればあるほど、どんな長い情報も複雑な内容も頭の中に覚えるしかありませんでした。
頭の中の記憶こそが、一番、秘密裡にできる情報保持法だったのです。
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そこで忍者達は忘れない方法を積み重ね、記憶術を編み出しました。
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そのひとつが連想法だったようです。
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〇食べ物に置き換える編
1(いち)・・・芋(いも)
2(に)・・・・煮梅(にうめ)
3(さん)・・・山椒(さんしょう)
4(し)・・・・椎茸(しいたけ)
5(ご)・・・・牛蒡(ごぼう)
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〇体の部分に置き換える編
1・・・・・・・頭
2・・・・・・・おでこ
3・・・・・・・目
4・・・・・・・鼻
5・・・・・・・口
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覚えにくいものをあらかじめ決めている置き換え方を使い、記憶していったようです。
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泣くよウグイス平安京(平安京・・・794年)など、必死になって年号を覚えた受験生の工夫にも通ずることがあるような・・・感じです。
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忍者の食べ物に置き換える記憶術を見て、ふと昔ながらの数え唄を思い出しました・・・。
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無花果(いちじく)、人参(にんじん)、山椒(さんしょう)、椎茸(しいたけ)、牛蒡(ごぼう)に、無患子(むくろじゅ)、七草(ななくさ)、初茸(はつたけ)、胡瓜(きゅうり)に冬瓜(とうがん)
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このわらべ歌は、静岡の手毬(てまり)歌由来だそうで、大阪・京都や広島、香川、長崎などは5番(ごぼう)または6番(むくろじゅ)辺りから別なもので歌われていたりします。ほぼ全国でそれぞれ歌われているようです。
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ちなみに香川・・・(1番から4番は同じ。以下は、ごぼう、ろくたび、なっぱに、じゃがいも、くじらに、とうふ)
やはり、海にくじらが来ていたのかなぁと思います。
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少し脱線してしまいましたが、このわらべ歌・・・忍者の記憶術に通ずるところがないでしょうか?!
3番(山椒=さんしょう)、4番(椎茸=しいたけ)、5番(牛蒡=ごぼう)が同じなのです。
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詳しいことは歴史を紐解いていないので分からないのですが、この忍者の記憶術と静岡の手毬(てまり)歌・・・どこかで出会っている?!いつかのどこかでリンクしている?!のでは?と、ふと思いました。
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実は、発祥地の静岡と言えば、徳川家康が幼少期(今川家の人質時代)から、晩年に至るまで(将軍職を嫡男に譲った後、現在の静岡・駿府城に居住を移し、大御所として実権を掌握し続け、幕府の制度作りに勤めた。)縁深い土地でした。
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そして伊賀の忍者は、この徳川家康ととても縁が深いのです。
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戦国時代の一大事であった本能寺の変。
京都の本能寺で当時の天下人・織田信長が家臣・明智光秀に暗殺されてしまいます。
その時、織田信長の味方である徳川家康は大阪・堺辺りを旅行中でした。
今や、暗殺側から見れば、織田の味方=敵、命を狙われる立場に急変。
お供も少ないこの徳川家康は、決死の思いで(伊賀越え)をし、自身の浜松城に戻ります。
この(伊賀越え)にお供し、成功させたのが伊賀忍者だと言われているのです。
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その後、その功績を高く評価した徳川家康は天下を取った後も伊賀忍者を多数、召し抱えました。
伊賀忍者は、こうして徳川家の武将・服部半蔵正成のもと、徳川幕府(伊賀同心組)となっていきました。
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当然、戦国時代から江戸時代に至るまで、伊賀忍者は徳川家康の居住地・静岡への出入りは数知れぬほどあったはずです。
卵が先か?にわとりが先か?は定かではありませんが、伊賀忍者の記憶術と昔ながらのわらべ歌(静岡の手毬唄)の関連性は、決して偶然ではないような気が、個人的にはしています。
いつか詳しく調べてみたいなぁとふと思いました。
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最後に忍者の究極の暗記法・・・『不忘の術』(ふぽうのじゅつ)
究極も究極・・・絶対に忘れることがないように自分の体に刀などで傷をつけたとの事。
ある情報がすぐに思い浮かぶように傷口をつけたようです。
修行を積んだとはいえ、命がけの忍者の記憶術でした。
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(次回に続く)