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彼がドイツ留学中にローテンブルグ市の歴史ある町並みに魅せられ、故郷の倉敷川周囲の町並みを後世に残すことを提案したのが始まりといわれています。
美観地区とそ周辺には大原美術館や旧大原家住宅など、ゆかりの地が点在しています。今回は大原家にまつわる観光地を紹介しましょう。
旧大原家住宅
この住宅は、国の重要文化財にして、つい最近まで大原家当主が暮らす現役の住居でした。しかし、平成30年に「語らい座 大原本邸」として一般の方々にも見ていただけるように解放されました。
大原家は江戸時代に綿の仲買や米穀問屋を営んで倉敷の有力商人となり、庄屋を務めるほどの大地主となりました。また、大原孫三郎の父、孝四郎が紡績会社(現クラボウ)を設立した後は、倉敷の発展に大きな影響を与えています。
手前の石橋は、大正15年に天皇陛下を迎えるにあたって造られた物で、児島虎二郎のデザインで菊の御紋と5本指の龍が欄干に彫刻されていて、見応えがあります。
旧大原家から道を一本隔てた隣にある建物は有隣荘といいます。
大原孫三郎が病弱な奥さんのために建てた建物で、設計は大原美術館の設計を手がけた薬師寺主計と明治神宮の造営で知られる伊藤忠太、内外装デザインは児島虎次郎、庭園は近代日本庭園の先駆者であり平安神宮や山県有朋邸などの名庭を手がけた京都植冶の七代目小川治兵衞という層々たるメンバーです。
「緑御殿」とも呼ばれ、周囲の黒瓦の日本家屋とは一線を画し、美しいオレンジと緑の独特な色合いの瓦は、泉州堺の瓦職人に特別注文したものといわれています。1947年には昭和天皇が大原家に来られた折には、この有隣荘にお泊まりになられました。
年に2回、大原美術館主催の特別展示室として公開されています。私も一度は入ってみたいと思っていますが、人気があるので雨の日でも長蛇の列をなし、まだ一度も見学したことがありません。
大原美術館
そして、倉敷川を挟んで旧大原家の向かいにあるのが美観地区のシンボルともいえる大原美術館です。
昭和5年、日本に初めてできた私設の西洋美術館です。「日本の画学生に、本物の洋画を見せたい」と願った画家 児島虎次郎とその想いに応え、巨額の私財を投じた大原孫三郎によって誕生しました。
古典派から印象派まで、巨匠の洋画を所蔵・展示されていますが、渡欧し、これらを収集してきたのが児島虎次郎です。ただ、虎次郎は残念なことに47歳の若さで他界してしまいます。その早すぎる死を悼んだ孫三郎が、虎次郎の収集した作品と彼の描いた作品を公開するために設立したのが大原美術館です。
こんなエピソードを知って美術館を訪れると、ここに展示されている作品に対するふたりの熱い思いが伝わってくると思います。
新渓園(しんけいえん)
大原美術館の一角にある新渓園は、大原孫三郎の父、大原孝四郎が還暦記念の別荘として、明治26年に建てたものです。
初夏の新緑、秋の紅葉など四季の美しい景観を一望できる敬倹堂(けいけんどう)や本格的な茶室を備えた游心亭(ゆうしんてい)があります。この庭園は無料で見学でき、自由に散策を楽しめるのがうれしいです。
美術館の隣には、「EL GRECO(エル・グレコ)」という蔦の絡まる喫茶店があります。もともと、大正末期の大原孫三郎の事務所跡を喫茶店に改装し、創業から50年以上の時を経た今も上げ下げ窓など、当時の面影が随所に残っています。
倉敷アイビースクエア
明治22年に建設された倉敷紡績所(現:クラボウ)の本社工場を再開発した複合文化施設です。敷地内にはホテルやレストラン、宴会場のほか、体験工房や歴史館、地元の特産品などを扱うショップがあります。赤レンガに蔦の絡まる建物は、当時紡績工場で、まだ冷暖房のなかった時代、蔦の絡まる夏は室内が陰になり涼しく、蔦の散った冬は室内が明るくなるという先人の知恵によるものです。
文化的にも貴重な操業当時の工場外観と基本構造を残した設計で、広大な中庭広場は訪れる人の憩いの場となっています。
また、美観地区外になりますが倉敷中央病院も大正12年に大原孫三郎によって設立されました。社会から得た富は社会に還元するという考えのもとに、倉敷紡績所に勤める女工さんの健康を維持するために創設されたといいます。当時の建物は患者が安心して治療に専念できるように病院の冷たいイメージを排除し、患者や外来者が自由に利用できる温室や結核病棟の横には噴水のある中庭などもあったそう。女工さんと言えば『ああ野麦峠』のような劣悪な環境のなかで働く姿を思い浮かべていましたが、大正時代にこれだけの施設をつくっていたということには驚きました。数年前、私の父も心臓手術でお世話になりましたが、その理念は今も変わっていないと思いました。