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岡山特派員のmamiです。岡山後楽園界隈をご案内していますが
後楽園から南に見えるのが岡山城です。
漆黒で塗られた下見板が光に照らされ
「カラスの濡れ羽色」に似ているところから「烏城(うじょう)」とも呼ばれます。
また、上の写真のように金の鯱や瓦に金箔が押されていたことから
「金烏城」の別名もあったと聞きます。
築城は関が原の合戦前で、宇喜多秀家の時です。
この時期に築造された天守閣は数えるほどしかなく
最も古い望楼方天守閣になるそうで
太平洋戦争の最中、B29の爆撃を受け
燃え落ちるまでは国宝だったということはを
岡山市民でも知らない人が多くなっています。
今日はこの岡山城をご案内しましょう。
岡山城は宇喜多秀家が築城し「岡山」という丘の上に建っています。
それが岡山という地名の由来といいます。
本丸御殿を守る最も内側のお堀です。
石垣は当時の城郭の姿をとどめています。
おそらく野面積みだと思います。
目安橋を渡り本丸に迫ります。
この先の「内下馬門(うちげばもん)」の石垣には
藩の威光や大名の権力を示すため高さ4.1㍍、幅3.4㍍の巨石を
石垣に用いていますが不覚にも写真を撮り損ねていました。
入場してすぐの石垣、下の段です。
小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修した石垣で
徐々に勾配が強くなっています。
この上には敵を待ち受けるための城内最大の櫓である
三層の「大納戸櫓」が聳え建っていました。
この大手筋が正規の登城路なので石垣も高く警備も堅そうです。
歴史学者の磯田道史氏は備前岡山藩の支藩、備中鴨方藩重臣の家系で
先月のフォーラムでは岡山市長に「御殿の再建」を話されていましたが
私としては、ついでにこの「大納戸櫓」も再建して欲しいなぁ。と、思っています。
仕切り塀と高石垣が続く大手筋を通り「供腰掛」に突き当たると
左手に中の段に登る石段があります。
この階段の踊り場にはかつて扉の表面に鉄板を貼った
「鉄門(くろがねもん)」があったそうです。
櫓付の不明門(あかずもん)が見えてきました。ここからが中の段です。
ここから先の最上段の本段は城主の私邸であり、普段は閉まっていたため
こんな名前がついたようです。
中の段には、藩政を司った表書院などがありましたが
中段から先は次回のご案内とさせていただきますね。