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かつては国宝だった漆黒の城「岡山城」 ~後楽園界隈~

mami

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岡山特派員

更新日
2017年12月17日
公開日
2017年12月17日
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岡山特派員のmamiです。岡山後楽園界隈をご案内していますが

後楽園から南に見えるのが岡山城です。

漆黒で塗られた下見板が光に照らされ

「カラスの濡れ羽色」に似ているところから「烏城(うじょう)」とも呼ばれます。

また、上の写真のように金の鯱や瓦に金箔が押されていたことから

「金烏城」の別名もあったと聞きます。

築城は関が原の合戦前で、宇喜多秀家の時です。

この時期に築造された天守閣は数えるほどしかなく

最も古い望楼方天守閣になるそうで

太平洋戦争の最中、B29の爆撃を受け

燃え落ちるまでは国宝だったということはを

岡山市民でも知らない人が多くなっています。

今日はこの岡山城をご案内しましょう。

岡山城は宇喜多秀家が築城し「岡山」という丘の上に建っています。

それが岡山という地名の由来といいます。

本丸御殿を守る最も内側のお堀です。

石垣は当時の城郭の姿をとどめています。

おそらく野面積みだと思います。

目安橋を渡り本丸に迫ります。

この先の「内下馬門(うちげばもん)」の石垣には

藩の威光や大名の権力を示すため高さ4.1㍍、幅3.4㍍の巨石を

石垣に用いていますが不覚にも写真を撮り損ねていました。

入場してすぐの石垣、下の段です。

小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修した石垣で

徐々に勾配が強くなっています。

この上には敵を待ち受けるための城内最大の櫓である

三層の「大納戸櫓」が聳え建っていました。

この大手筋が正規の登城路なので石垣も高く警備も堅そうです。

歴史学者の磯田道史氏は備前岡山藩の支藩、備中鴨方藩重臣の家系で

先月のフォーラムでは岡山市長に「御殿の再建」を話されていましたが

私としては、ついでにこの「大納戸櫓」も再建して欲しいなぁ。と、思っています。

仕切り塀と高石垣が続く大手筋を通り「供腰掛」に突き当たると

左手に中の段に登る石段があります。

この階段の踊り場にはかつて扉の表面に鉄板を貼った

「鉄門(くろがねもん)」があったそうです。

櫓付の不明門(あかずもん)が見えてきました。ここからが中の段です。

ここから先の最上段の本段は城主の私邸であり、普段は閉まっていたため

こんな名前がついたようです。

中の段には、藩政を司った表書院などがありましたが

中段から先は次回のご案内とさせていただきますね。

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