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1200年の時を刻んできた京都には、歴史を残す町並みがあります。
河原町五条近くの「五電車 京阪本線 清水五条駅下車 徒歩10分条楽園」を歩いてみました。
五条楽園は、河原町五条にあります。河原町五条と言えば、牛若丸と弁慶の出会いの場所として語り継がれている
「五条大橋」がある場所です。
写真の←左方向に下がって行きます。
このエリアは、鴨川に隣接し高瀬川の両岸にあたり、菊浜学区と呼ばれています。
まずは、高瀬川沿いにある「源融」(げんゆう)の木。
源融の木のあるこの場所は、かつて源氏物語の光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子 源融(みなもとのとおる)の邸宅「河原院」の跡があり、この榎の大樹は、この邸内にあった籬(まがき)の森の名残とされています。
高瀬川沿いの道を歩きます。
このエリアは高瀬川を中心にした五条楽園と呼ばれた遊廓の街でした。
遊郭と言えば、東京の「吉原」や、京都の「島原」といわれますが、
島原はどちらかというと高級花街でした。
対して五条楽園に来る客層はもう少し庶民的な人の多いエリアでした。
《五条楽園の歴史》
五条楽園の歴史は、江戸時代前期、鴨川西岸に開発した七条新地、六条新地、五条新地に茶屋を設けたのが始まりでした。
全盛期には遊女1000人以上いた「京女郎」の町として栄えたそうです。
時を経て、昭和33年に売春防止法が制定されると、この七条新地は大打撃を受け、
娼妓専門のお茶屋は一気に半分以下になってしまいました。
その後、七条新地は「五条楽園」と名を替えて存続して来ましたが
2010年に非合法の業者が摘発されると、このエリアの遊郭の歴史は完全に終わってしまいました。
また同年には、五条楽園入り口に掲げられていた「五條楽園」の看板も撤去されています。
色街としての機能を失った五条楽園の街。
今もここを歩くと、京の遊郭の歴史を物語るような建物を幾つか見る事が出来ます。
遊郭の特徴を残す建物といえば、数寄屋建築をベースとした木造建築で、
玄関に唐破風や、二階の手摺などがあげられます。
遊郭建築は機能的でもあり、複数の通路や階段、
客の様子を除くことができる窓など、細部にまで工夫された建築です。
狭い路地を抜けたら、鴨川に出ました。
川の奥右手には、比叡山が見えます。
こちらは高瀬川沿いの「サウナの梅湯」さん。
温泉のお湯は京都の湧き水を使用しているそうで人気の銭湯です。
この大きな建物は、五条楽園歌舞練場(五条会館)。
五条は娼妓や芸妓が入り混じった場所でしたが、五条楽園歌舞練場では、芸事のお稽古が行われていました。
建物は大正4(1915)年に建築されたもので、木造3階建てです。
五条会館には、約250人が収容できるお座敷があり本格的な舞台もあります。
現在でもイベントやコンサート等が行われています。
今、かつての五条楽園のエリアを歩くと、「いかがわしい」空気は何一つ残っていません。
生まれ変わった町には、とってもお洒落なカフェや観光客向けの宿泊施設などがあり、賑わいを見せています。
当時の面影を残した街なみは独特で、改装した料亭や宿は
海外からの観光客にも人気があります。