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先月は吉備津彦命(考霊天皇の皇子)が祀られた吉備津彦神社と吉備津神社の周りを中心に紹介しましたが、吉備津彦命による温羅退治の伝説は後世に引き継がれ、昔話の桃太郎による鬼退治の原型となったとされています。
さて、今回は温羅の棲み家といわれる鬼ノ城を紹介します。
中央に見える山が「鬼ノ城」と呼ばれ、古代山城の跡が残る山です。
一帯は急峻な山容で岩が露出し、そびえ立つ山肌、地形に沿った城壁が一体となり、人を寄せつけず周囲ににらみを利かせているような山です。山林が削られて見える場所は、遺跡を復元しています……。
ここが鬼ノ城の西門跡に復元された城門です。城門といっても天守閣が聳える城の城門とは趣がずいぶん違いますね。
大和朝廷によって7世紀後半に築かれたとされる古代の山城です。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したあと、大和朝廷は防衛のために、対馬から畿内にいたる要所にさまざまな防御施設を築いています。鬼ノ城は歴史書には一切記されていませんが、そのときに築かれた城のひとつとされ「日本100名城」にも名を連ねています。
この敷石も存在感があり、よく見る石畳とは違いますよね。このような敷石の発見は国内初だったそうで似たものは朝鮮半島で数例見つかっているだけだそうです。
そのせいでしょうか? 伝説では温羅は朝鮮半島からやってきたと言われています。
高さ6mの城壁の下は、そそり立つ絶壁の崖地になっています。ここから望むパノラマ風景はすばらしく写真ではわかりづらいのですが児島湖や瀬戸内海の方まで見えました。
この城が作られた頃は海がこのあたりまで迫っていたと言われています。
麓の「吉備津」という地名は、もともと港の名前ともいわれています。津々浦々というように日本列島の地名の「津」や「浦」をつないでいくと昔の海岸線になると、地質調査関係の方から聞いたことがあります。
この城壁には西の城門だけではなく、地図のように南門、東門、北門も備えてありました。
城壁に沿って整備された全長2.8kmのウオーキングコースを歩くのもおすすめですよ。
石垣の中でも最も迫力があるのが、この「屏風折れの石垣」と呼ばれる場所でしょう。
千年以上も昔、この山の絶壁にどうやって積み上げたんでしょう?
こんな場所に巨大な城を築けるのは鬼しかいない! ということから温羅伝説が誕生したのでしょうか?
周囲の城壁から眼下を望めば、吉備津彦命と温羅の戦いが繰り広げられた、楯築遺跡や矢喰宮、 鯉喰神社 (鯉喰神社遺跡)、血吸川など古くから護り伝えられた伝説ワールドが散らばっています。
次回はこれらの場所と伝説を紹介していきたいと思います。
山頂の手前には復元の過程や遺跡が出土したときの様子を紹介した「総社市鬼ノ城ビジターセンター」があります。
■鬼ノ城
・住所: 〒719-1101 岡山県総社市奥坂
・電話番号: 0866-99-8566(鬼城山ビジターセンター)
・URL: 総社市公式サイト
・営業時間: 8:30~17:00(鬼城山ビジターセンター)
・定休日: 月曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
・アクセス: (車) 岡山総社ICから鬼ノ城ビジターセンターまで約20分、(公共)JR総社駅からタクシー約30分、下車徒歩約10分
・駐車場: 普通車30台、バスは小型バスまで乗り入れ可