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こんにちは。岡山県特派員のmamiです。
今年2021年は梅雨入りも早かったのですが、今週は晴天が三日も続いている岡山市内です。
今月は五月雨に縁の深い備中高松城址に関する場所を紹介しましょう。
現在、城跡は高松城址公園として整備されています。
GWは本丸の周りの沼を復元した場所にアヤメが満開で、ツツジとのコントラストもきれいでした。
歴史好きの方なら備中高松城の名前を聞いただけで「水攻め」というキーワードが出てくるかと思います。
戦国時代、織田信長の命により、播磨の三木城・因幡の鳥取城……と、次々に落城させていく羽柴秀吉ですが、その前に立ちはだかったのが西国の雄・毛利氏です。時の城主・清水宗治が守る備中高松城だけはなかなか落ちず、季節は折しも五月雨(梅雨)の時季、軍師の黒田官兵衛の進言を受け秀吉は「水攻め」という奇策に出ます。
周囲は山に囲まれ、近隣の百姓も動員されわずか12日の工期で完成したと伝わっています。
もともと深い堀と沼沢地に囲まれた毛利氏の堅固な要塞だった高松城は、約2.7kmの堤防を築かれ、その中に足守川の水を引き込まれ、湖の孤城となりました。このままでは兵糧が尽き、城内の兵やその家族は餓死してしまいます。援軍に駆けつけた毛利氏側の武将、小早川隆景、吉川元春らも孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかったといいます。
この戦略の最中の旧暦6月2日、明智光秀の謀反により織田信長は本能寺で自害します。
3日、毛利方に向かう光秀の密使を捕らえた秀吉は信長の死を知ります。一刻も早く引き返し明智光秀を討ちたい秀吉は信長落命を隠し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に講和を結ぶよう説きます。
6月4日、主家である毛利家と城兵5000人の命と引き換えに城主清水宗治は湖上に舟を浮かべ自刃し和睦が成立します。
歴史に"もしも"はありませんが、もし密使が無事、毛利方に信長の死を知らせていたら……。
歴史は大きく変わっていたことでしょうね。
上の写真は、本丸跡に残る宗治公の辞世の句です。
浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
宗治公は小舟の上で能の「誓願寺」をひと舞い披露し、この句を詠み切腹したと言われています。享年46歳。
秀吉は宗治の最後を見届け、「宗治は武士の鑑であった」と後に小早川隆景に讃えていたそうです。
毎年、6月の第1日曜日には宗治祭が行われます。
首塚の前には祭壇が設けられ、清水家末裔や地元住民の方々が参列され、僧侶の読経のあと、太鼓や舞いの奉納があり、備中高松城主・清水宗治公の遺徳を偲びます。
7年前に城址を訪れたときは、偶然にも「432回忌宗治祭」の日でした。清水宗治公がいまなお、地元の人々に慕われ称えられていることに感銘を受けました。
今年の「439回忌宗治祭」はコロナ禍のため昨年と同じように、関係者のみで執り行われるそうです。
公園内には無料で楽しめる資料館もあります。館内には出土された遺物、文化財の展示のほか、10分程度の映像も楽しめます。
公園の入口には「水攻め音頭」の歌詞が掲げられていました。
秀吉が堤防を築く時の労働歌か(?)と異様に感じましたが、「宗治祭」の時に流れる楽曲で、歌詞を読むと宗治公を称えるものでした。節回しは今様です。
次回は城の周りの遺蹟を案内したいと思います。
■備中高松城址
・住所: 〒701-1335 岡山県岡山市北区高松
・電話番号: 086-287-5554(高松城址公園資料館)
・URL: 岡山市観光コンベンション協会公式サイト
・営業時間: 10:00~15:00
・定休日: 月曜日、年末年始
・アクセス: (車)岡山自動車道岡山総社ICから約15分、(公共)JR備中高松駅から徒歩約10分
・駐車場: 普通車30台、バス5台
・時期: 蓮(ハス)7月中旬