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こんにちは!
前回紹介した備中高松城址のすぐ東に高松山妙玄寺(こうしょうざんみょうげんじ)というお寺があります。
ここはかつての高松城二ノ丸址にあたります。備中高松城水攻めの名残をとどめる寺院で、この辺りが宗治公の自刃した場所と伝わっています。
境内には、宗治公が主君毛利氏への忠義と城下の兵とその家族五千人の命と引き換えに切腹したことへの顕彰碑がありました。
秀吉に対峙して一艘の小舟が湖と化した高松城から進み出てます。小舟には宗治と共に、兄の月清入道(げつせいにゅうどう)、家臣らの姿があり、秀吉軍が見守るなか、宗治は悠々と能の「誓願寺」を一舞披露し、潔く切腹したと伝わています。そのあまりの見事な最期に、秀吉も「武士の鑑」と感嘆したといわれています。
妙玄寺は慶長5(1600)年、高松知行所の領主・花房職之により花房家の菩提寺として建立されます。400年の歴史を持ちますが本堂は意外と新しく3年前に再建されたばかりです。
秀吉陣営に属した宇喜多家の家老だった花房職之は、領主として治めるこの地に寺院を建立した際、宗治公の忠勇義烈に敬意を表し「高松院殿清鏡宗心大居士」と記した位牌を祀り花房家の位牌とともにお祀りしています。
私がここを訪れたのは「宗治祭」の前日でした。境内には正装した僧侶の読経が流れ「宗治祭」の前夜祭の最中だったようでした。
本堂から向かって右側には、昭和38(1963)年に建立された供養塔があったので合唱。
地元にはもちろん歴史愛好家などにも宗治公の人気は高く、熱心な方はこちらの供養塔にも来られるようです。
宗治公の供養塔の場所から東を見ると石井山があります。
羽柴秀吉は攻めあぐんだ末に黒田官兵衛の献策により「水攻め」を決断し、本陣をこの石井山に移して築堤をすすめ水攻めを敢行します。
ちょうど、白い幟の翻る場所が秀吉の本陣跡です。
もうひとつ、この寺の近くにごうやぶ遺跡というものがありました。
高松城三の丸総門のわきにあたり、田んぼの中に作で囲われて残っていました。
高松城主清水宗治が切腹する船を追って、宗治の草履取だった七郎二郎と宗治の兄・月清の馬の口取與十郎が「一足先に三途の川でお待ち申します」とお互いに刺し違えて殉死したところと伝わっています。
木の袂には小さな祠が安置されていました。
宗治公の後を追って、兄の月清入道(げつせいにゅうどう)、家臣2人も自害を遂げ、4人の介錯を行った國府市正も自刃したそうです。
■妙玄寺
・住所: 〒701-1335 岡山県岡山市北区高松691
・電話番号: 086-250-3704
・URL: https://myougenji.or.jp/
・アクセス: (車)岡山自動車道岡山総社ICから約15分/(公共)JR備中高松駅から徒歩約10分