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こんにちは~。
今回は前回、妙玄寺から見えた羽柴秀吉の陣のあった石井山を登り太閤岩まで行こうと思います。
太閤岩へは、あらかじめ地元の人から情報を得ていました。
山には駐車場がないので蛙ヶ鼻の堤防跡の公園や高松城址に駐車するのがおすすめです。
教えていただいた通り、「御崎さま」と呼ばれていた御崎神社(おんざきじんじゃ)の鳥居がありました。
山の上へ延びる階段を見ていると、ここも水攻めの遺構では?と思ったら
がっつり、関連する看板を見つけました!
この神社は堀尾茂助が陣を置いた場所でした。
石段をあがり鐘楼の脇を抜けて拝殿が見えてきました。周りは木立に囲まれた鬱蒼とした神社です。
左側手が高松城の見える方角ですが、木々が生い茂り視界がききません。
何とか隙間から下を見下ろせる場所がありました。水田が辛うじて見えました。
やはり、妙玄寺から見えたあの羽柴秀吉の本陣のあった場所がいちばん見えそうです。
ただ、日が沈みあたりも暗くなり始めたので本陣跡へは、次の日に出直しました。
次の日の朝です。
御崎神社の前の道から東へ向くと突き当りの山に看板が見えます。そこが本陣への登り道になります。
「太閤岩」というのは、秀吉が座ったと言われる岩です。後に天下を統一し、太閤になるのでそう呼ばれているそうです。
道はこんな感じです。やはり、山影になるので日が沈んでから歩くのは危険ですね。それに人があまり来ないのか歩いていると蜘蛛の巣が顔や腕にはりついてきます(笑)。やぶ蚊にも咬まれました。低い山ですが、足元も滑りやすいのできちんとした登山靴が必要ですね。サンダルやパンプスなんて論外です。
しばらく歩くと道標がありました。「太閤岩」まで600m。首塚跡まで100mです。
"首塚跡"? 首塚は現在本丸跡にあったから、それまではここにあったのかな?
蛙ヶ鼻というのは、この石井山の南にある水攻めのための堤防の東端の跡が残っている場所です。いまは史跡公園となっています。
しばらく歩くと確かに首塚跡がありました。
説明文によると、「講和の条件として自刃した宗治公の首級は、秀吉の本陣、石井山持宝院の境内に於いて首実検され、本陣脇に手厚く葬られ五輪塔が建立されたといわれている。その後、地元の偉人宗治公を称える人々により公の顕彰へと進展、明治42年にここ備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた」と。
いまは角ばった自然石があるだけで五輪塔はありません。もしかすると、現在の首塚の上にある塔がそうでしょうか?
そして、現在の首塚ができたのは100年ほど前のことで、長い間ここで眠っていらっしゃったのですね。
秀吉の本陣跡と持宝院跡の看板
ふたつの看板が見えた先は、広々とした空間が広がり、ここが持宝院の境内の中にあった秀吉の本陣です。
鬱蒼とした山道を登ってきたので
梅雨の晴れ間に翻る幟の白さがが眩しい~!
本陣跡から高松城址を見下ろします。
妙玄寺のある場所が宗治公が自刃された場所で、こんもりと木の茂った場所が供養塔のある場所です。
また、本丸跡に現在の首塚があります。この日は6月の第1日曜日で「439回忌宗治祭」がしめやかに行われていたことでしょう。
堤防のラインは私が地図を見ながら大体この辺りかな?と引いた、ザックリしたものです。悪しからず。この本陣のある山の南端の蛙ヶ鼻から足守川の取水口まで延びていたと伝わっています。しかし最近の説では蛙ヶ鼻から備中高松駅付近までの約300mでの堤防ではなかったかという説が有力だそうです。
加藤清正の陣から右の山並みには、津田与左衛門、宇喜多忠家、羽柴秀勝、仙谷権兵衛等の陣が備中高松城の周りを取り囲んでいました。
ご覧のように水攻めが成功したのは三方を山に囲まれた地形と梅雨で大雨が降ったこと、そして高松城が石垣のない平城だったことでしょう。1985年の6月の洪水のときも高松城の周辺が大洪水になったことがあります。
さらに500m先の太閤岩を目指して歩き始めたら「此の先、スズメバチの巣があります」の看板に遮られます。同行の夫は絶対に行かないと言い、私もここで断念しました。帰って調べてみたら、スズメバチの活動期間は春から秋頃までで、特に6月から10月頃は凶暴で危険ということでした。ここで諦めて正解だったと思います。太閤岩に行ってみたいときは、冬の間がおすすめですね。