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こんにちは~。岡山特派員のmamiです。
今回は羽柴秀吉の陣のあった石井山の麓から足守にかけて延びる水攻めの後を尋ねました。ここは、水攻めに使用した堤防の一部が残っている場所です。現在は史跡公園として整備されています。
現在は樹木が生えていますが、この小高い丘が堤防の跡になります。
看板が光っていて見えにくいのですが、堤防の高さは高松城の天守閣の屋根とほぼ同じくらいです。いまのような測量機器がなかった時代に、近づくこともできない敵城の屋根の高をどうやって知ったのでしょうかね。
現在地が堤防の東端になり、足守駅付近へ向かった赤いラインが3kmの堤防を築いた位置と伝わっています。この堤防は、わずか12日間で築いたと伝えられています。
梅雨で増水した水が足守川の取水口から高松城をめがけて流れ込んだことがよくわかりますね。周囲の山は秀吉の家臣の陣で取り囲まれ、援軍としてやって来た毛利勢は、庚申山や造山古墳など遠巻きに陣をはりますが、時すでに遅く備中高松城は湖面の浮城となり、なすすべもなかったと伝わっています。
この堤防の周りは、宇喜多氏の家臣、花房助兵衛(すけのひょうえ)が守っていました。高松城が落城したあと、彼はこの地の領主となり、妙玄寺を菩提寺として建立した際、宗治公に敬意を表し宗治公の位牌も花房家の位牌とともにお祀りしています。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命されました。
堤防の上へのぼってみましょう。
ここでは、偶然地元で生まれ育った方のお話を聞くことができて、私の知らない関連遺跡がまだまだあることを教えていただきました。
天正10年の梅雨は、眼下の景色がすべてが水没してしまったのです。備中高松城は正面に見える高松稲荷の大鳥居の右側に位置します。現在は民家が立ち並び城跡は見えませんが、当時はここからよく見えたのだと思います。
吉備線を走る列車がやってきました。明治36年の吉備線の鉄道工事のとき、この築堤の土砂の大半が持ち去られてしまい、現在の「蛙が鼻築堤跡」のみがかろうじて残されたと伝えられています。あの電車の下の土はいまも堤防の土なのかもしれませんね。
近年、一部発掘調査が行われました。その結果、基底部幅約22~24m(12~13間)築堤に際して土留めなどに使われたと思われる木杭や、土俵、むしろなどが確認されています。築堤の大半はすでに削り取られていたものの、現在の水田の下約1mのところで、基底部が確認され、その断面が保存されています。
石井山の奥に見える山には羽柴秀長の陣がありました。
そして、ここが蛙ヶ鼻から3km先にある足守川の水取口のあった付近です。
ただ、近年の説では、伝わっているような長大な規模ではなく、蛙ヶ鼻から備中高松城駅付近までの約300m、高さ2m程度の堤防だったのではという説が有力とされているようです。その程度の規模であれば、引き連れてきた武士だけの動員で12日間程度の工期も現実味を帯びてくるそうです。
足守川です。実は、この水取口は今回の取材のために来たのではなく、お花見をしたときに偶然見つけたのです。(#^^#)
堤防の脇に神社を見つけたので登ってみます。
生石(おいし)神社という神社です。
拝殿でお参りをしたあと、本殿に廻ってみました。生石神社の看板によると、もともとは毛利氏の配下にいた生石氏が論功に不満をもち、毛利軍から秀吉方に寝返り、水攻めの際には加藤清正がこの神社の山に陣を張ったそうです。
この戦いの前には、毛利軍に属していた宇喜多氏も秀吉方に寝返っています。戦国の時代、生き延びるためには主君を裏切り、親族同士で争い、騙しあうことが常だったことを思えば、清水宗治公の毛利家と小早川家の安泰そして、家臣とその家族の命と引き換えに切腹して果てたということは、稀にみる忠臣だたのかもしれません。