キーワードで検索
最大369名の生徒が在籍していた小学校も吉岡銅山が閉山し弁柄の生産も終わると生徒数も減少の一途をたどり、平成24年に閉校しました。
一見すると古いだけの校舎に見えますが、明治時代に建築技師が西洋の建築に関心と憧れを抱き、伝統的な日本の木造建築物に西洋のデザインと文化を取り入れた「擬洋風建築」という様式です。外観はシンメントリーで窓の上には化粧筋交(すじかい)があります。
早速、中に入ります。下駄箱に靴をしまい、突き当りの部屋に入ります。ここは一見、部屋に見えたのですが「三軒廊下」と呼ばれる廊下でした。雨の日は体操場としても使われていたそうです。
天井はトラス構造になって広い廊下と2階の講堂を支えています。ところどころにボルトが使われているのは、解体修理の時の補強でしょうか?
2階の講堂です。まず、目につく天井は、二重折上棹縁(おりあげさおぶち)天井という風格のある意匠です。明治33年に完成し、閉校までの100年以上の間、子供たちに見上げられていた天井だと思うと感慨もひとしおです。
そして床には、ありました!(ピンボケで見えにくくてごめんなさい。)
少し大きな床の節穴です。まだこの校舎が現役の頃、テレビ番組で、子供たちがこの節穴をのぞき、階下の三間廊下で遊んでいるお友達と連絡を取り合っていたのです。今は穴がシリコンのようなもので塞がれていますが痕跡は残っていました。
「100年オルガン」と呼ばれている開校当初からの足踏みオルガン。今となっては貴重なオルガンですね。
講堂の窓から見える山麓の新緑が鮮やかでした。
古い板硝子を通して見える歪んだ世界も楽しめます。
東西校舎の廊下は私が過ごした小学校の廊下に似て懐かしさを感じました。今でも制服を着た小学生が廊下を走ってきそうです。
教室の中は「明治時代の教室」とありましたが、どっぷり昭和の私も同じような教室で過ごしました。
建物の中は、当時の小学校の姿を残すだけではなく、日本遺産となった銅山やベンガラのことも知ることのできる日本遺産センターという部屋があります。上の写真は、この部屋に飾られている九谷焼の大鉢ですが、この絵の赤もベンガラで彩色されています。
明治10年の「第1回内国勧業博覧会」では、「吹屋弁柄」は一等褒状(ほうじょう)を授与され、その品質の確かさは全国に広まったといいます。吹屋弁柄は建材としてだけではなく、日本を代表する九谷焼や伊万里焼のような色鮮やかな陶磁器や漆器等工芸品の顔料、船舶の防腐塗料として重用され、全国の市場を独占し、巨万の富を築いたといいます。
夏や紅葉のシーズンなど、期間を定めて夜間のライトアップもしています。プールに映った逆さ校舎はフォトジェニックで素敵ですね。写真のライトアップは、今回訪れた時の写真ではなく解体修理前の校舎です。トップの写真と見比べてください。プールや校庭の樹々が植わっています。