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19世紀のフランス美術界に大きな変革をもたらした印象派やポスト印象派と呼ばれる画家たちは、多くの美しい風景画やポートレートを残しました。彼らが好んだ景色がパリの近郊にも点在しています。カイユボットのイエール、ルノワールのシャトゥ、ゴッホのオーヴェル・シュル・オワーズを紹介します。
カイユボットは、印象派の画家の中でも特異な存在です。裕福な家に生まれたカイユボットは、自ら絵を描いて出品する他に、当時の印象派画家たちの活動を経済的に支えました。そのカイユボットが一時暮らした屋敷が、パリの南東郊外イエールに、「カイユボットの家」として建っています。カイユボットはここで、89点以上のカンバス画を制作しました。
カイユボットの家を含む敷地は、16世紀まではイエールの領主たちが所有してきましたが、1824年に料理人のピエール・フレデリック・ボレルが買い取ると、屋敷を新古典様式に改築。客をもてなすために豪奢な室内装飾や調度品をそろえました。
庭園はイギリス式に作り直され、庭の各所に異国風の建物を配置。歩きながら世界一周を楽しめるようにしました。特に園内にある氷室は圧巻で、日本風の東屋もあります。
しかし、ボレルの破産によって、同地をナポレオンに仕えた金銀細工師・指物師であるマルタン・ギヨーム・ビエネの未亡人であるアンヌ・マリー・ゴーダンが購入。その後に、カイユボットの父であるマーシアル・カイユボットが買い取り、当時オスマン県知事によるパリ大改造で騒々しかったパリから離れるための夏の保養地として、カイユボット一家が滞在することになりました。
ただ、カイユボットの両親が亡くなると、子供たちは領地を売却。その後も何度か所有者は変わり、今はイエール市の所有になりました。壁など傷んでいた内装も綺麗に整えられました。
建物の構造は、オーナーが変わってもずっと保たれてきましたが、案内をしてくれた同館のディレクターであるヴァレリー・デュポン・エニャン氏と観光発展責任者のマリー・アグネス・ルブリュー氏よると、市が購入した時は家具などは残っていなかったそうです。そのため年代別の家具などを保管している国有動産管理局から同じ時代の家具の無償貸与を受けて、室内が整えられました。
たとえば、ダイニングルームにある家具は、ヴェルサイユ宮殿のグラン・トリアノンとプチ・トリアノンにあったものです。
白亜の邸宅と緑あふれる庭園を眺めていると、印象派の画家たちが生きていた時代が蘇ってくるようです。
シャトゥはパリの北西郊外の町。セーヌ川に広がる中洲で、人々が船遊びを楽しむ行楽地でした。このシャトゥをテーマにした作品がルノワールの『舟遊びをする人たちの昼食』です。現在はワシントンD.C.のフィリップス・コレクションが所蔵しています。
同作品では、セーヌ川畔に今も建つメゾン・フルネーズのテラスでくつろぐ、ルノワールの知人たちの様子が描かれています。
最も手前に座っているのがカイユボット。ルノワールの画家としての活動を経済的に支援しました。その正面で犬と戯れているのが、後のルノワールの妻であるアリーヌ・シャリゴです。
川寄りに手すりの上に頬杖をついているのが、メゾン・フルネーズの経営者アルフォンス・フルネーズの娘であるルイーズ・アルフォンシーヌ・フルネーズ、その前で手すりに寄りかかっている男性がアルフォンス・フルネーズの息子アルフォンス・フルネーズJrです。
メゾン・フルネーズは現在もレストランとして営まれており、セーヌ川を眺めながら食事ができます。同じ建物内にはフルネーズ美術館があり、当時の様子を知ることができます。
今は多くの産業用の商業船がセーヌ川を行き来するため、当時のような船遊びはできませんが、かつてはボートを浮かべてゆったりとした船遊びを楽しんでいました。
メゾン・フルネーズのすぐ近くには、当時のボートを保管してある倉庫があり、ボランティア団体により説明会などが開かれています。
印象派の画家たちが生きていた時代からは、随分社会は変わりましたが、柔らかく明るい光が差し込む日中にメゾン・フルネーズで食事を取っていると、ルノワールたちが楽しんだ当時の空気感に少しだけ触れられる気がします。
ゴッホとゆかりのある場所は、パリやアルルなどいくつかありますが、オーヴェル・シュル・オワーズはゴッホが自殺を図って亡くなる前の2ヵ月間を過ごした村です。ゴッホの滞在期間は短いですが、その2ヵ月の間に多くの作品を描き、村内の各所では作品のモチーフとなった風景が残ります。
オーヴェル・シュル・オワーズ駅の北にあるノートルダム教会は、パリのオルセー美術館が所蔵する『オーヴェルの教会』として描かれている建物。ゴッホの絵と同じ風景が、目の前に現れます。そこからさらに北へ歩いていくと、村落が終わり畑に。現在はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館が所蔵する『カラスのいる麦畑』の景色があります。
さらに行くと村の墓地があり、ゴッホと弟のテオのお墓が並びます。
駅前の通りから西に行くと村役場が。その反対側にゴッホが逗留していたラヴー亭が建っています。当時のラヴー亭はカフェ兼ホテルでした。その北にはゴッホが自殺を図る直前に描かれたという『木の根と幹』のモチーフとなった場所があります。
ゴッホは村内に住むガシェ医師(『医師ガシェの肖像』はワシントンD.C.のナショナルギャラリー所蔵)の治療を受けるため、南仏サン・レミの療養所からオーヴェル・シュル・オワーズへ移り、同建物の3階に部屋を借りていました。自殺を図ったもののすぐに死ねなかったゴッホは、その後の2日間をラヴー亭の自室のベッドの上で過ごしてから亡くなりました。
現在のラヴー亭は、1階がレストラン、2階はショップ、3階は当時の様子を復元した資料館となっています。建物はゴッホに入れ込むベルギー人のドミニク・シャルル・ジャンセン氏により所有・管理されています。ジャンセン氏はラヴー亭の保存はもとより、ゴッホに関する資料の保存や研究、ラヴー亭から眺めた周囲の景観を当時のまま保つための活動を行なっています。そのため周辺の建物も少しずつ購入しているそうです。
同氏によると、ゴッホは自らの展覧会を開くことが夢だったとのこと。ゴッホは画家として光が当たる前に亡くなりましたが、そのゴッホの夢をこのラヴー亭で叶えるべく、ジャンセン氏はゴッホ作品の展覧会が近い将来に整うように、日々尽力しています。
取材協力:フランス観光開発機構、パリ地方観光局