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パリ日本文化会館で特別展「東京-近代版画に見る都市の創成」が開催中、珠玉の近代版画をフランスで展示

守隨 亨延

守隨 亨延

フランス特派員

更新日
2024年11月19日
公開日
2024年11月19日

エッフェル塔近くにあるパリ日本文化会館では、来年2025年2月1日まで特別展「東京-近代版画に見る都市の創成」が開かれています。東京都江戸東京博物館の収蔵品より、近代の版画やポスター、地図、服飾品等の約100点の資料を展示。明治維新から戦後まで、変わりゆく東京の景色を版画で巡ることができます。

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明治維新から現代まで東京を6分類

今回の特別展は、1920年代から1930年代の日本の近代版画が紹介されています。主に東京の都市風景を取り上げ、「近代化の進展」「震災前の東京」「関東大震災」「東京復興」「モダン東京と人々」「うつりゆく風景」と大きく6つに分けて、東京がどのように変化していったかを、版画で知ることができます。

展示に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが、江戸時代から文明開化へと、まだら模様に彩られた東京の景色です。

開国によって海外から合成染料が日本国内にもたらされるようになると、それらを用いた色彩鮮やかな「開化絵」と呼ばれる版画が広まります。しかし、今回展示されている版画は、それらと一線を画した「光線画」です。

「小林清親や井上安治が制作した、光や影を映し取った『光線画』と呼ばれる版画では、彼らは見たままを版画にすることを取り組みました」と、今回のメディア向け内覧会で解説した江戸東京博物館学芸員でキュレーターの小山周子さん。柔らかな色彩が特徴です。

かつての第一国立銀行

かつて東京・兜町にあった第一国立銀行。小林清親が描いた同銀行は、日本の伝統的建築用い、和洋折衷で建てられた擬洋風建築です。雪のなかを人力車が通り、橋を渡る着物姿の女性が持つ和傘には、漢字とローマ数字が混在している様からも、時代が移り変わっている様子を見て取れます。

第一国立銀行以外にも、日本の西洋文明との接点は、さまざまな影響をもたらしました。

展示作品の中で特に印象的なのが、ビクトル・ユゴー『噫無情(レ・ミゼラブル)』の登場人物を描いた山村耕花による大首絵。歌舞伎役者・守田勘弥が演じるジャン・バルジャンが、銀食器を盗む有名な場面を描写されています。

一番左がジャン・バルジャン

「山村耕花は写楽を真似ていますが、役の心情までを表現したいと願いました。表情の機敏さは写楽には無いところです」と小山さんは解説します。

かつて浅草にあった、12階建ての凌雲閣も、この時代を代表する東京の景色です。

浅草にあった凌雲閣

「エッフェル塔の翌年に開業したため、日本のエッフェル塔と呼ばれました」(小山さん)。しかし、新たな景色が広がりつつあった東京に大きな出来事が起こりました。1923年に起きた関東大震災です。

関東大震災を機会に景観が一変

火災旋風の様子

関東大震災が起きたのは、11時58分。昼食の支度をするために多くの家庭で火を使っていたため、すぐに火災が発生しました。そして折からの強風で燃え広がり、3日間にわたり東京を焼き尽くしました。

今回の展示では、四方からの火災が押し寄せて竜巻状に火災が巻き起こる、火災旋風の凄まじさや、浅草寺が火に包まれている様子を、版画で描いた報道画もあります。

関東大震災に関連する資料

「これらは現場取材に基づく報道ではなく、すでに報じられているエピソードを図解しているものです」と同じく江戸東京博物館学芸員でキュレーターの新田太郎さん。震災跡から採取された、半分溶けた硬貨やガラス瓶、ノコギリの刃なども展示されています。

崩れた凌雲閣の姿を描いた絵葉書も必見です。

焼け野原に痛々しく崩れた凌雲閣が残る

甚大な被害をもたらした関東大震災は、東京の景観の一つの転換点となります。

「鉄とコンクリートは関東大震災で耐震性が確認された建築部材。関東大震災からの復興は鉄とコンクリートを用いた重量感ある構造物によってもたらされ、これらは新たな都市景観を構成していきました」(新田さん)

1924年から1930年にかけて、東京では街路、橋梁、河川、運河、都市区画整理などが行われ、これら事業を通して現在の東京の骨格となる社会資本が整備されていきました。「太い線と強い色彩の構造美や、繊細な色彩で移ろいゆく空気感を作っています」と新田さんはこの時期の作品を形容します。

被災の中心地だった隅田川の橋梁も、震災後に意匠を凝らした橋の掛け替えが行われました。それら橋梁はヨーロッパに倣い、景観に配慮したものとなりました。

清洲橋

たとえば川瀬巴水が描いた清洲橋の版画が今回の特別展では展示されていますが、清洲橋はドイツ・ケルンのライン川にかかる吊り橋をモデルにしたと言われています。

東京の巨大化と花咲く大正文化

各私鉄を描いた路線図

東京中心部から延伸した郊外列車や宅地開発によって、東京の都市規模も広がっていきました。1932年には、江戸時代から続いた旧市街の15区に、周囲の町村を合併して、35区の大東京が出現しました。

「この大東京が成立すると、この時代を生きた版画家たちも復興した新名所を画題として取り上げていきます」と新田さん。展示されている路線図を眺めていると、今でも馴染みのある駅名が至るところにあり、親近感を覚えます。

個人的に気になったのは、「大正広重」と呼ばれた吉田初三郎の鳥瞰図『小田原急行鉄道沿線名所案内』です。

吉田初三郎の鳥瞰図

吉田初三郎については、私が携わった『地球の歩き方 愛知』でも特集を組んでいます。関東大震災で被災した初三郎は、愛知の犬山に居を移し、その当時「日本ライン」に関する鳥瞰図を多く残したからです。

日本ラインとは、当時は主に岐阜・土田と愛知・犬山を繋いだ木曽川の峡谷のこと。景観がドイツのライン川のようだと志賀重昂に形容され命名されました。個人的には、私の曽祖父が、その土田という場所に北陽館という旅館を建て、ライン遊園を整備して日本ラインの観光開発を行なった縁があり、また自宅に初三郎の鳥瞰図のコレクションもあり、とても思い入れがあります。

話がそれましたが、次はファッションに焦点を当てた展示が続きます。建物だけでなく人々の生活様式も大きく変わっていきました。

モダンガールを描いた作品と着物

「一般の人でもデパートに行くようになります。日本的な働き方である『サラリーマン』という言葉が一般的になったのもこの時代です」(小山さん)

当時「モダンガール」「モダンボーイ」の略である「モガ」「モボ」と呼ばれたファッショニスタたちがいました。モダンという呼び方から洋装をイメージしますが、実際は違うそうで、調査によると銀座を歩く99%の女性は着物姿であったそうです。

「髪型にも注目してもらいたいのですが、当時ヘッドフォンをつけたような髪型を『ラジオ巻き』と呼んでいました。これらが新版画でも描かれています」と小山さんは言います。

この時代になると、夜の楽しみも一般的になってきました。そのため銀座、浅草、新宿、渋谷といった街の、夜景が描き出されていくようになりました。

織田一磨が描いた新宿のカフェー街

しかし、1930年代は次第に軍靴の音が聞こえてくる年代でもありました。第二次大戦に入ると、社会の余裕も無くなり版画は制作されなくなっていきます。

東京を題材とした版画の終焉

戦後、国が復興しても、版画制作は戦前のようには戻りませんでした。創作版画の作家たちは内面を描き出し始め、都市風景は描かなくなっていきますし、新版画の作家は、より美しい景色を求めて東京以外に出かけていきます。

「それを踏まえると1920年代から1930年代というのは、東京を多くの版画家が描いた非常に貴重な時代だったということがわかります」と小山さんは述べます。

特別展の最後は、川瀬巴水が戦後にわずかだけ描いた、歌舞伎座、明治神宮、増上寺という東京の風景3点と、最後まで新版画の制作をした笠松紫浪の東京タワーの版画で締められています。

増上寺

増上寺については、板木や下絵についても東京国立博物館に保管されていているそうです。これは版画制作が間も無く終わってしまうということに危機感を抱いた当時の文部省が、版画の記録として残したものです。

川瀬巴水は、その後は東京の風景はほとんど描かなくなっていき、数年後に亡くなります。

笠松紫浪が描いた東京タワーも、少ない色数で豊かに表現されていますが、笠松もまた、この作品を最後に東京の景色を版画で描き出すことはなくなりました。

「近代版画をまとめて紹介する貴重な機会。東京とパリの皆さまそれぞれによって、都市の変化を絵から見て考えることになること望んでいます」と小山さん。パリで楽しめる日本に関する珠玉の特別展となっています。

■パリ日本文化会館(Maison de la culture du Japon à Paris)
住所:101 bis Quai Jacques Chirac 75015
URL:https://www.mcjp.fr/ja
期間:2024年11月6日〜2025年2月1日

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