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千葉県多古町で、なんと60年ぶりの祭りが開催されました。「丙午(ひのえうま)」の年だけ行われる「神幸祭(じんこうさい)」です。1606年から始まり、今回で第8回目を迎える五穀豊穣を願うこの祭り。前回は昭和41年(1966年)に行われましたが、当時の資料はほぼ散逸してしまっていたと言います。開催すら危ぶまれるなか、地域の人々の手によって奇跡的に蘇った幻の祭りを追いました。
多古町の東側の外れ。町の形を牛に見立てた際、ちょうど「左耳」の辺りに位置する松崎神社で、出社祭が始まりました。
狩衣を纏い、烏帽子を被った神官が手洗所の前で修祓(しゅばつ)の儀を行います。続いて巫女を携えて境内を進み、本堂のなかへ。神様に食事を供える献饌(けんせん)の儀、祝詞の奏上、そして玉串奉奠(たまぐしほうてん)として榊の枝を供え、感謝を捧げます。
神幸祭は「房総のお浜降り習俗」のひとつです。神輿を海や水辺に運び、水のなかへと入っていくことで五穀豊穣、漁業繁昌、無病息災、子孫長久を祈願します。千葉県の北東部はかつて、利根川や霞ヶ浦などの水域が繋がり、湾のように水辺が広がっていました。多古町にも貝塚が残っていることから、水との関わりが深かったことがわかります。
ほかにも神輿を海へ運ぶ祭りは存在しますが、多古町の神幸祭は「丙午の年」のみ、つまり「60年に一度」しか行われないという点が極めて特殊なのです。
神輿が置かれた場所へ、各地区を象徴する文様が染め抜かれた法被姿の人々が集まってきます。「御召立之儀(おんめしたてのぎ)」で役割と名前が読み上げられると、「オー!」という力強い声とともに隊列が組まれていきました。
鳥居をくぐり階段を下った隊列は、祭囃子と共に神社前の道を進みます。かつては長い距離を練り歩いたであろう道のりも、現代の交通事情に合わせて神輿を担ぐのは数十メートルのみ。その後はトラックに載せて海辺へと向かいます。形は変われど、神を海へといざなう目的は揺るぎません。祭りの舞台は、匝瑳市の野手浜へと移ります。
浜へ到着すると、そこにはすでに大勢の人が集まっていました。しばらくして神輿とお囃子隊が到着し、祭壇がセッティングされた浜辺で本祭が執り行われます。
ここでも祝詞奏上と玉串奉奠が行われ、いよいよ神輿が担ぎ上げられる「お浜降り」のスタートです。
3月にしては暖かく、心地よい風が吹く絶好の祭り日和。そんな海へと神輿が進んでいきます。お浜降りとは、神様を乗せた神輿が海や川などの水に入る神事のこと。水によって神霊を清め、新たな活力を得ることで、地域の安寧を祈願します。軽快な祭囃子と力強い太鼓の音が響くなか、担ぎ手たちは遠浅の海をどんどん奥へと進んでいきます。
思った以上に浅瀬が続いており、神輿は遠くへ遠くへと進んでいきます。波に打たれながらも、威勢のいい掛け声が響き渡っていました。
海のなかで揉まれ、十分に自然の力と清めを受けた神輿は再び陸へと上がり、長い旅路を終えて松崎神社へと帰還していきました。
参加者を見渡してみると、老年の方からおそらく10代の人々までさまざま。世代を超えて受け継がれる祭りが、この地域の繋がりを作っていることを伺わせます。なかには車椅子で浜まで来ている老婦人の姿もありました。もしかしたら前回の神幸祭を体験していた方だったのかもしれません。
60年に一度の奇跡。それは単なる珍しいイベントではなく、人間の寿命を超えて「祈り」を繋ごうとする、この地域の人々の執念と誇りの結晶でした。
全国には、数年間隔で行われる大きな祭りがあります。長野県の諏訪大社の御柱祭は6年ごと、千葉県の香取神宮の式年神幸祭は12年ごと。有名な三重県の伊勢神宮の式年遷宮は20年ごとに行われます。20年であれば、親から子へ、あるいは熟練者から若手へと、ギリギリ技術や記憶を直接引き継ぐことができます。
しかし、松崎神社の神幸祭は「丙午の年」を基準とするため、60年間隔です。これは「世代をひとつ飛ばす」ことを意味します。前回中心となって動いた人々はすでに第一線を退くか、鬼籍に入っていることがほとんどでしょう。資料が乏しいなか、記憶の糸をたぐり寄せ、現代の法令や環境に合わせて祭りを再構築した関係者の苦労は、想像を絶するものだったはずです。
すべての儀式を終えたあとも祭囃子が鳴り響き、神輿が担がれ続けていました。こうして、60年の時を超えた神事は幕を閉じたのです。
■松崎神社
創建は宝亀3年(772年)。今から1250年以上も前のこと。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)など三柱の穀物神を祀り、古くから人々の信仰を集めてきました。
住所:千葉県香取郡多古町松崎1658