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1789年7月14日、生活苦にあえいでいたパリ市民は、王政を倒すために立ち上がり、バスティーユにあった監獄を占拠しました。この事件が発端となり、やがて絶対王政は終焉のときを迎えます。フランス革命勃発の地として知られるようになったバスティーユ。現在はパリの流行を先取りするエリアとして、人気を集めています。
バスティーユは、パリ発祥の地であるシテ島から東へ徒歩20分ほどのところにあります。メトロ①⑤⑧号線のバスティーユ(Bastille)駅を出たところがバスティーユ広場(Place de la Bastille)です。フランス革命の発端となった「バスティーユ襲撃事件」で民衆に占拠された監獄は、革命後に解体され、現在の広場の中心には「7月革命記念柱」が建っています。一角にあるモダンなデザインの建物は、「オペラ・バスティーユ(Opéra Bastille)」です。
バスティーユ広場から西のポンピドゥー・センターにいたるまでの一帯は「マレ」と呼ばれ、貴族の館と個性的なブティックが集まる、散策が楽しい地区です。
マレ地区の南、セーヌ川右岸には重厚なルネッサンス様式の「パリ市庁舎(Hôtel de Ville de Paris)」があります。ここでは質の高い企画展が行われることもあり、開催期間中は長蛇の列ができるほどの人気です。
中世のパリの町は城壁(フィリップ・オーギュストの壁)に取り囲まれていました。シャルル5世(1338~1380)は、百年戦争(1337~1453)のため、セーヌ右岸のこの城壁の外側に新しく城壁を建設し、さらに1370年にはパリの東方を守るバスティーユ要塞を城壁の東部に建設しました。8つの塔や堀、跳ね橋、兵器庫を持つ、堂々とした造りの要塞でした。その後、時代によってその用途は変遷し、ときには犯罪者を収監するために使われることもありました。
バスティーユ要塞が監獄となったのは、17世紀のこと。ルイ13世(1601~1643)の宰相リシュリューによって、王や体制に反対する国事犯を収容するための施設となり、王の令状があれば裁判なしに国民を捕え、収容できるようになったのです。哲学者ヴォルテール(1694~1778)や小説家サド侯爵(1740~1814)もバスティーユに投獄されています。
貴族たちが贅沢な生活を送るなか、貧困にあえぐ庶民の不満は、ある事件をきっかけに爆発します。それが「ネッケルの罷免」です。
1788年に財務長官に2度目の就任をした平民出身のネッケル(1732~1804)は、王の独断ではなく議会を開いて政治を行うよう要求し、庶民に寄り添った施策を行いました。ところがこれに反対する王党派は、1789年7月11日にネッケルを罷免したのです。
大衆に人気のあったネッケル罷免に激怒した民衆は、1789年7月14日の朝、負傷廃兵の看護施設であった廃兵院(アンヴァリッド)を襲って小銃や大砲を奪ったあと、バスティーユに集結します。午後1時頃には、ついに戦闘状態となり、民衆側にも多くの犠牲者が出ましたが、司令官が降伏し、バスティーユ監獄は陥落します。
その後民衆たちは、司令官やパリ知事など権力者たちをパリ市庁舎で殺害します。この事件は王党派を驚愕させ、有力貴族は相次いで亡命。国王ルイ16世(1754~1793)は前財務長官ネッケルの復職を決定し、民衆が発足させていた新パリ市政府と民兵隊を承認しました。この事件でパリの民衆は自信と武力を身につけ、王党派は国内の基盤を失い、フランス革命へとつながっていったのです。
フランス革命後にバスティーユ監獄は取り壊され、跡地は広場となりましたが、今も残るふたつの遺構を見ることができます。ひとつ目は要塞の壁の一部。メトロのバスティーユ駅の⑤号線ボビニー(Bobigny)行きホームにあり、解説とともに展示されています。
もうひとつは塔の基礎の一部。バスティーユ広場からアンリ・キャトル大通り(Bd. Henri Ⅳ)を歩き、セーヌ川に出る手前、スクアール・アンリ・ガリ(Square Henri Galli)という小公園に保存されています。
革命後のバスティーユはどうなったのでしょう。監獄が解体される際に出た石材は、コンコルド広場からセーヌ川に架かるコンコルド橋の建設に利用されました。監獄の跡地は広場となり、コンコルド広場に置かれていたギロチンが1794年には数ヵ月間バスティーユ広場に置かれたこともありました。「バスティーユ襲撃事件」の翌1790年7月14日には、バスティーユ広場で最初の革命記念日が祝われました。現在も、7月13日の革命記念日前夜祭はバスティーユ広場で行われています。
現在のバスティーユ広場の中心には「7月革命記念柱」が建っています。この柱は1830年の7月革命で犠牲になった市民を追悼するため、ルイ・フィリップ王(1773~1850)により1840年に建てられました。7月革命とは、1830年7月27日から29日の3日間に起こった市民革命です。これによりブルボン朝の復古王政が倒され、新たに擁立されたルイ・フィリップが王位に就きました。柱の上には自由の守護神が光り輝いています。
バスティーユ広場の一角には「オペラ・バスティーユ」があります。このモダンなデザインのオペラ座は、歴史的な町パリに新しい息吹を吹き込む大改造計画(グラン・プロジェ)のひとつとして、フランス革命200周年前夜祭の日、1989年7月13日に誕生しました。コンクールで選ばれたカナダ国籍の建築家カルロス・オットによる設計です。
■オペラ・バスティーユ Opéra Bastille
9月上旬~7月中旬の仏語ガイド付きツアーでのみ見学可能。所要約1時間30分。
・住所: Pl. de la Bastille 12e
・料金: €17
・URL: https://www.operadeparis.fr/
バスティーユ広場から西のポンピドゥー・センターにいたるまでの一帯はマレ地区と呼ばれています。「マレMarais」とは沼沢地の意で、セーヌの流れが徐々に変わり、そのために残された沼地だったことからこの名がつきました。
17世紀、アンリ4世によってヴォージュ広場(Place des Vosges)が造られると、貴族たちはこぞってこの美しい広場の近くに館を建てるようになり、マレ地区の人気は一気に高まりました。
現在のマレ地区はこうした貴族の館と個性的なブティックで彩られたエリアで、歴史ある町並みのなかに、高感度のショップやアートギャラリーが点在しています。なかでも北部にあるセレクトショップ「メルシー」は、北マレのおしゃれ&カルチャーの中心的存在。ファッション、インテリア、デザイン雑貨から日用品まで、厳選された商品が並んでいます。
■メルシー Merci
・住所: 111,bd. Beaumarchais 3e
・URL: https://www.merci-merci.com/fr/
マレ地区はまた、「ユダヤ人の街」という顔をもっています。19世紀末以降には迫害から逃れるために東ヨーロッパからやってきたユダヤ人が多く住み着いたのが、マレ地区だったのです。ユダヤ教会(シナゴーグ)やユダヤレストランが並ぶこの地区の名物は、ヒヨコ豆をつぶして揚げた「ファラフェル」です。これを揚げナス、紫キャベツと一緒にピタパンに挟んだサンドイッチは、とても人気があります。「ラス・デュ・ファラフェル」はユダヤ通りと呼ばれるロジエ通り(Rue des Rosiers)でもいちばんの人気店で、店頭にはいつも行列ができています。
■ラス・デュ・ファラフェル L’As du Fallafel
・住所: 34, rue des Rosiers 4e
パリ市庁舎はノートルダム大聖堂のあるシテ島からセーヌ右岸に向かって橋を渡った所にあり、メトロ①⑪号線オテル・ド・ヴィル(Hôtel de Ville)駅からすぐです。重厚なルネッサンス様式の建物で、1871年に一度火災で焼失し、その後再建されました。正面時計の下には、フランスの標語とされる3つの言葉「Liberté(自由)・Egalité(平等)・Fraternité(友愛)」の文字が刻まれています。
市庁舎内には観光案内所があり、その隣にはパリにまつわる雑貨を集めたショップ「パリ・ランデ・ヴー」があります。市庁舎内では年に数回、企画展も開催されており、質の高さに加え、入場無料ということもあって大人気。開催期間中は常に長蛇の列ができているので、朝いちばんに行くのがおすすめです。
■パリ市庁舎 Hôtel de Ville de Paris
・住所: 5, rue de Lobau 4e
■観光案内所 Office du Tourisme et des Congrès de Paris – Bureau Hôtel de Ville
・営業時間: 5~10月 9:00~19:00
11~4月 10:00~19:00
12/25は休み
・住所: 29, rue de Rivoli 4e
・URL: https://ja.parisinfo.com/
■パリ・ランデ・ヴー Paris Rendez-Vous
・営業時間: 10:00~19:00
・定休日: 日曜・祝日
フランス革命発祥の地バスティーユ。歴史の大きな転換地となった場所であると同時に、新しいパリの姿を感じることのできるバスティーユをぜひ散策してみてください。
TEXT:オフィス・ギア
PHOTO:オフィス・ギア、iStock
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