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パリから日帰りで行ける大聖堂の町シャルトル。2本の塔を擁し穀倉地帯に大きくそびえる大聖堂の姿は、昔から多くの巡礼者を呼び寄せてきました。町中には中世の木組みの建物が残り、パリとは趣を異にする魅力がたくさん詰まった場所です。
シャルトルはパリの南西に位置するゴシック様式のノートルダム大聖堂を中心とした町です。西側ファサードにデザインの異なった2種類の塔を抱え、堂内は美しいステンドグラスで飾られています。
「ノートルダム大聖堂」と聞くとパリを連想する人が多いかもしれません。また、なぜノートルダムという名前がふたつもあるのか混乱してしまうかもしれません。じつは「ノートルダム」と呼び名を持った大聖堂は各地にあります。「ノートルダム」というのは「私たちの貴婦人」という意味。つまり聖母マリアのことです。そしてパリのノートルダム大聖堂は正確には「カテドラル・ノートルダム・ド・パリ(パリのノートルダム大聖堂)」、シャルトルのノートルダム大聖堂は「カテドラル・ノートルダム・ド・シャルトル(シャルトルのノートルダム大聖堂)」といいます。そのシャルトルのノートルダム大聖堂の歴史を紐解くと、4世紀まで遡ります。
当時シャルトルは、ローマ帝国の勢力下にあるガリア(今のフランスやベルギーなどを含む地域)の司教管轄区でした。建物はその時代からあったといわれています。9世紀にはバイキングの襲来によってカテドラルは壊されてしまうものの、すぐに再建されました。当時の遺構の一部は現在でも残っています。転機は876年。聖遺物(聖母マリアの聖衣)をシャルル2世が遺譲すると、シャルトルは巡礼先として重要な場所となったのです。
1020年、大聖堂は火災により壊れてしまいます。しかし、フルベル司教が新しい建物の建設を行いました。その地下聖堂は現在も残っています。1134年、再びシャルトル市内を火災が遅い、町の大部分は荒廃しますが、幸い大聖堂への損害はありませんでした。火災で大聖堂前の家々が破壊されたため、大聖堂の身廊を大幅に伸ばす新しいファサードの建設が行われました。
北側の塔の土台はその時に建設が開始され、1145年には「王の扉口」と南側鐘楼「古い鐘楼」の建設が進められます。そして1150年頃にファサードが、1170年頃に南側鐘楼が完成しました。これらはロマネスク様式で建てられています。
ところが1194年に火事により、地下聖堂と西側ファサードの一部だけを残して、以前の建物は壊れてしまいました。火災により所蔵していた聖遺物も失われたと信じられていましたが、大火の際は地下聖堂に隠され火災を免れています。大聖堂自体も、フィリップ2世の従兄弟にあたるルノー・ド・ムーソン司教によって、ゴシック様式という当時の新手法で再建が着手されました。1194年から工事が始まり1221年には完成にこぎ着けるという記録的な速さで再建されました。
その後、大聖堂には14世紀にサン・ピア礼拝堂が身廊に加えられ、15世紀にはヴァンドーム礼拝堂が南側廊に建てられました。16世紀にはフランボワイヤン様式で北側鐘楼を建設。1836年の火災で栗の木の骨組みと鉛の屋根が焼失しましたが、代わりに鉄骨を使い銅のプレートで覆う形で現在に至っています。
シャルトル大聖堂は、中世のステンドグラスが現在までそのままの状態で残る、世界でも貴重な建物です。ステンドグラスは大聖堂内の150の窓を装飾し、総面積にして2500平方メートルあります。その中でも、西側ファサード3つの大窓にある『エッサイの樹』と内陣南窓にある『美しきガラス絵の聖母』と呼ばれるステンドグラスは、12世紀後半の作品で大変貴重なものです。また、これらステンドグラスを彩る青色はシャルトルブルーと呼ばれています。
ちなみに、「エッサイ」というのは旧約聖書に登場する古代イスラエル王国の第2代国王ダビデの父のこと。キリストの先祖にあたります。キリストからエッサイにつながる家系図を樹木のように描いたものを一般的に「エッサイの樹」といいます。
他のステンドグラスは、ほとんどが13世紀のものですが、それでも貴重なものに変わりありません。12星座や天使、聖人など、キリスト教にまつわる物語が表現されています。ステンドグラス制作は多くの費用がかかり高価なものでした。そのためこれらは同業組合、司教、王室などから寄贈されたものです。当時の富がステンドグラスに形を変えて今日まで伝わっています。
大聖堂を飾る彫刻でまず注目すべきは「王の扉口」です。12世紀の作品です。王の扉口は西側ファサードにあり、同所は1194年の火災の被害を免れた場所でもあります。ファサード自体は4つの階層から成り立っています。そのもっとも下にある3つの扉口で構成される部分を「王の扉口」と呼んでいます。また王の扉口の上部には3つの窓が設けられ、中央の最も大きなもので11m。そして、その上には直径13.5mのバラ窓があります。
王の扉口を彩る3つのタンパン(開口部のアーチと楣に囲まれた半円形の部分)には、キリスト教にまつわる物語が表現されています。右の扉口にある「受肉」は、神の子キリストがイエスという人間性として地上に生まれたことを表現しています。中央にある「キリストの栄光の帰還」は、福音書の作者を象徴する4つの生き物がキリストを囲んでいます。左の「主の昇天」は、イエス・キリストが復活後40日目に天に昇った様子を表しています。
さらに中央扉口の人物を表した円柱形装飾には、ダビデ(エッサイの子でイスラエル王となる)、ソロモン(イスラエル王でダビデの子)、シバの女王、そしておそらくイザヤ(イスラエルの預言者)またはエゼキエル(イスラエルの預言者)が並び立っています。
シャルトル大聖堂の塔は時代によって増改築され、その形を変えてきました。北側の塔は3層に分かれ、下部の角柱になっている部分が最初の鐘楼です。大聖堂にある7つの鐘のうち、ふたつがここに設置されています。もっとも大きい鐘には「マリー」という愛称が付けられています。
角柱部分の上、八角柱と、さらにその上の八角柱と八角垂を合わせたそれぞれの部分には、合わせて5つの鐘が設置されています。1520年に鋳造された大聖堂内で最も古い鐘は、3層構造の尖塔部分に設置されています。尖塔自体は1517年に建設されたものです。それ以前は、同所に木製の尖塔が乗っていたもの、1506年に落雷を受けたため再建されました。
南側の塔である「古い鐘楼」は1145年に建てられたものです。かつてここには鐘が据えられていましたが、現在はありません。その上には八角形の尖塔が載っています。尖塔部分は47mあり、12世紀に建てられました。
シャルトル大聖堂のファサードをプロジェクションマッピングで彩るイベント「シャルトル・アン・ルミエール」が、毎年4月から10月にかけて行われています。料金は無料。期間中の日没後から深夜1時まで、プロジェクションマッピングは毎晩行われます。シャルトル・アン・ルミエールは大聖堂に限ったイベントではなく、シャルトル美術館、ウール川沿いの橋や洗濯場跡、サン・ピエール教会など、シャルトル市内24カ所で同時に行われています。
夏場は日が長く日没になる時間は遅いです。列車を使う場合は終電の時間が限られているため、終電時間を気にしながらだと、しっかりと楽しむことは難しいです。シャルトルはパリから日帰りできる距離ですが、シャルトル市内に1泊して余裕をもって見学することをおすすめします。
パリからシャルトルまでは列車を使い約1時間で到着します。パリ・モンパルナス駅からTERの列車がシャルトル方面に出ています。パリ・シャルトル間は、途中のランブイエ駅までトランシリアンN線の路線が、各駅停車で走っています。N線に乗った場合、ランブイエ駅止まりですので、その先へ行くにはTERの列車に乗り換える必要があります。
シャルトルまで直接行きたい場合は、パリ・モンパルナス駅から直接TERの列車に乗ることをおすすめします。TERの列車の場合は、すべての駅に停車せず乗り換えも必要ないため、シャルトルまで早く着きます。シャルトル駅から大聖堂までは徒歩圏内です。案内板もありますし、歩いていると大聖堂の建物が見えてきますので、それを目印に向かいましょう。
・住所: Cloître Notre Dame, 28000
・概要: 長さ130m、身廊の高さ36.5m×幅16m、高さ(北側尖塔)115m
・営業時間: 8:30〜19:30(7・8月の火・金・日曜は〜22:00)
・休館日: 無休
・入場料: 無料
シャルトルは、パリから近いので、一般的には往復とも一般の公共交通機関を利用してのアクセスとなります。ただし、夜間のプロジェクションマッピングをみて、その晩のうちにパリに戻りたい場合には、現地発着ツアーを利用する方法があります。たとえば、日系のミキ・ツーリストが催行する現地発着ツアーでは、プロジェクションマッピングを見た後にパリまで(片道)送迎してくれるものなどがあります。往路は公共交通機関などでシャルトルへ向かうことになります。
■シャルトル(フランス)の現地発着オプショナルツアー(地球の歩き方トラベル)
・URL: https://op.arukikata.com/a/a/104/c/FR/city/QTJ/
シャルトルはパリから日帰りで行ける、パリ近郊の遠出にぴったりの町です。集積する文化財や中世からの町並みはすばらしく、パリ滞在の1日をシャルトル観光に割り当ててアクセントをつけてみるのも、パリ旅行を楽しむコツです。
PHOTO: iStock