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2021年10月現在、まだ以前のように自由に海外に行ける状態ではないが、だからこそ、今はゆっくり旅について語りたい!そんな思いで生まれた、「こんな時だから、旅を語ろう」企画。その一部として『地球の歩き方』を作るスタッフにインタビューを実施。最終回は、株式会社地球の歩き方代表取締役社長 新井邦弘。旅人の目線で歴史のエポックメイキングな風景を見てきた彼に、「時代の動きを感じる旅」について話を聞いた。
新井社長にとってはじめての海外旅行は87年。自由旅行が解禁されて間もない中国だった。「大学の先輩に一緒に行かないかと誘われて。まず香港から夜のフェリーで広州に入りました。そこから川船で梧州という街へ行き、そこからさらにバスで桂林へ。その後は、何があるかも分からないまま貴州へ向かいました。」当時は外国人が入れるのはいわゆる「開放都市」に限定されており、しかも交通手段が限定されていたため、実際には行ってみないとどの街に行けるか分からなかったという。予め計画を立てられないまるでミステリーツアーのような冒険旅行だ。
改革開放から10年も経っていない中国では、人々の生活文化が印象的だったよう。「まだみんな人民服を着ていたし、通貨に関しては人民幣と外貨兌換券の二重通貨制度でした。外国人が両替する場合は外貨券(兌換券)になるんですが、地元の友諠商店(百貨店)では外貨券でしか買えない外国製品があるので中国人は外貨券を欲しがるんです。闇両替商は外国人を見ると『チェンジマネー?』と寄ってきました。闇レートがあって外貨券の方が高いのですが、町で外貨券を使うとおつりは同じ額の人民幣なんですよね。」
文化大革命で疲弊した経済を立て直す過程にあった当時の中国には貧しいイメージがあるが、「確かに物資はなくて貧しかったけれど、飢えている感じはなかった。食が豊かなのはさすが中国だなと思いました。」
初の海外ということを差し引いてもカルチャーショックは大きかった。「列車のチケットを買うにしても割り込まないと買えないし、硬座(二等)は指定席なんてないから皆我先に乗り込む感じで車内はすし詰め状態。床にはゴミが捨てられたり子供がおしっこしたりしてものすごく汚かったんですが席がとれず24時間近く乗車した時にはクタクタになって『もういいや!』と床に横になって寝ました。」衛生面での衝撃は発展途上の国を旅する際にはつきものだが、中国のトイレには相当度肝を抜かれたようだ。「ドアが無くて隣の人と顔を突き合わせて並んで用を足すんですよ!小ではなく大です。あれは相当ショックでした。どちらかと言えば自分は神経質な方だったのでこんなトイレは絶対無理と思ってたんですが、3、4日すると順応している自分がいて。その時意識が変わってひとまわり成長したと感じましたね。」
見るもの全てがあまりに刺激的で「殴られたような感覚だった。」と、表現する初海外3週間の中国旅。だがその刺激がクセになり、翌年に今度は一人で中国へ渡った。「NHKの『シルクロード』に憧れていたので、ウルムチに行きたかったんですが、現地で航空券が手に入らなかったので、方針変更して雲南省に行ったんです。『地球の歩き方』の巻頭記事に出ていた、村人たちが一斉に集まる月曜市場を見たくて大理まで行ったりしましたね。」一年経っても相変わらず中国は人民服を着ている人ばかりだったが、雲南には少数民族が多いため、カラフルな民族衣装を纏った人も見かけたそう。「市場では食材はもちろん少数民族が織物を売っていたり、路上で床屋が開かれたり。売られている豚や鶏が時々逃げて、それを人が追いかけて。賑やかでとても活気がありました。」
ちなみに、その時行けなかったシルクロードへは、12年の時を経て雑誌『歴史群像』の取材で辿り着くことになる。「学生時代に旅した時は、将来歴史雑誌の取材でシルクロードを訪れることも、旅でお世話になった『地球の歩き方』と縁ができることも思いもしませんでした。人生、何が起こるかわかりませんね。」
中国でのハードコアな旅にハマると、次にヨーロッパや中近東を1年近くかけて巡ることに。その旅は「今思えば歴史が激変する直前直後に触れた旅だった。」と振り返る。
その一つがまだ東西冷戦下にあったベルリン。「行ったのはベルリンの壁崩壊の1年前。ブランデンブルク門のすぐ前に壁があって、そこに置いてある台に上ると壁の向こう側に東ドイツの衛兵がいるのが見えました。外国人はチェックポイント・チャーリーという検問所で25マルクの強制両替に応じれば東ベルリンに1日入れたので行ってみたんですが、何もない灰色の街という印象で、経済が疲弊しきっているのを感じました。西側の華やかさとは対照的でしたね。」
閉じた雰囲気の東ヨーロッパの中で、好印象だったのはユーゴスラビアだったそう。「東ヨーロッパで一番ゆるやかな社会主義国だったからでしょうね。ノービザで入れたので1日だけベオグラードを散策しましたが、自由に旅をしている外国人バックパッカーも見かけましたよ。」そんな開けた印象のユーゴスラビアだったが、彼が訪れたおよそ3年後に内乱が勃発。「当時はまさかユーゴがあんなになるなんて想像もしなかったなぁ。」
旅の終盤、彼はトルコの宿でイランに入国できるという情報を得て、イラン・イラク戦争停戦3ヵ月後のイランを訪れている。「8年続いた戦争が終わった直後で物資がなく、経済封鎖を受けていたので貧しくて、しょっちゅう停電するような状態でしたが、とにかく人が優しかったですね。特に日本人には友好的でIJPC(イラン・ジャパン石油化学)プロジェクトの影響かも。イラン・イラク戦争が始まった後も日本はギリギリまで撤退せずプロジェクトを支えたので、日本人に恩義を感じていたのかもしれません。とにかく滞在中は嫌な思いを一切しませんでした。」
一度、道案内を買って出てくれた少年を「騙すつもりなんじゃないか?」と疑ったことがあるが、純粋に善意でしてくれたと分かった瞬間に自分を恥じた。イランの人々の品位の高さについて彼は、「プライドがあるからだろう。」と推測する。「自分たちはペルシャ人であることに誇りを持っているんだと思います。かつて大帝国を誇り由緒正しい文化を築いた民族の末裔として、隣人・旅人に優しくする文化があり、教育がちゃんとなされているのでしょう。それと、イランは革命前は中東で最も近代化が進んだ国で、欧米文化の良さを知っているということも関係しているのかも。」
思いがけずイランに入れることもあれば、予定していたアルジェリアには直前で暴動が起きて入れないなんてこともあった。「ちょっと時期をずらしていたら入れたかもしれないと思うと、旅はタイミングだなとつくづく思います。そう思うと戦争が終結した直後にイランに入れたというのは僕の中ですごく大きなこと。入国できたからこそ、いろんな人と交流ができて、今でもイランの印象はすごくポジティブ。もしタイミングが合わず入国できなければ僕の中になかったものだと思うととても貴重な体験だと思います。」
帰国した翌年の89年に入ると、1月に昭和天皇が崩御し元号が平成に移行、6月に天安門事件が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊した。「本当に激動の年で、旅で見てきた国々が歴史の上で大きく動いているのを感じました。」
大学卒業後は、株式会社学習研究社(現・学研ホールディングス)に入社。大学で西洋史を専攻していたことから『歴史群像』の編集部員に抜擢され、学生時代に培ったバックパッカー経験を生かし、様々な国の歴史を取材した。その先々でも時代の動きを感じることがあったようだ。「例えば、90年代初頭のチェコ取材は、チェコとスロバキアが分離して間もない頃でまだ自由旅行が難しかったんです。社会主義国の名残が強くて取材は公営の旅行社を通す必要があったし。印象深いのは、在東京のチェコスロバキア大使館が分割されて、ビザを取りに行った時にチェコ大使館とスロバキア大使館が別の入り口になっていたことですね。」
96年になると、アトランタオリンピックに因み南北戦争特集を企画。生まれて初めてアメリカに渡り、アトランタのあるジョージア州を含めたアメリカ東部・南部の州を巡った。「ペンシルバニア、ワシントンDC界隈、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア、テネシー、ミシシッピー、ルイジアナなどあらゆる戦跡を巡りました。ミシシッピーには、南北戦争時代に使われた鉄製の砲艦が残っているんですよ。戦跡は大抵ナショナルパークとしてきちんと保護されているんですが、家族連れや学生の姿もあって、地元の人たちにとって身近な場所なんだなと感じました。」
南北戦争の歴史を取材する旅は同時に、アメリカそのものの歴史を知る旅でもあった。「アメリカ植民の歴史は英仏を中心に展開されますが、大陸を南下するにつれてそれが実感できるんです。移民が住み着くのは郷土に似た風景の土地。例えば南北戦争で一番の激戦地だったゲティスバーグのあるペンシルバニア州にはイギリスのような景色が広がっているんです。また、同じ州内にはドイツ系のアーミッシュもいて、今でも電気や自動車を使わない清貧な生活を続けていて。アーミッシュ以外も移民時の生活習慣を強い信仰のもと守っているんですよ。」
さらに南下し、ルイジアナに着くと、今度は南フランスぽい風景が広がり食事もバリエーション豊かになる。「ミシシッピー流域もですが、フランス植民地だったので風景や食事にもその影響が出ていて。フレンチをルーツとするケイジャン料理などはその一例ですね。沼地が多いエリアなので、バケツいっぱいのザリガニ料理とか、ナマズフライのハンバーガーとか、ソフトシェルクラブのサンドウィッチとか。独特ですがどれも美味しかったですよ。」
レンタカーで3週間、全行程6,800kmという途方もない距離を移動した旅。その魅力は、歴史背景と合わせエリアごとの特色を知っていく面白さにあるようだ。
「それぞれの土地で母国のモラルや伝統が根を張り、宗教心からコミュニティができ、政治母体になって、ロビー団体になって…というのがアメリカの構造なのかなと感じました。自論ですが、アメリカはエキセントリックとすら思える宗教心のある国。以前はヨーローッパのカトリックの方が宗教心が強くてドグマティックだと思っていたんですが、今では逆だと思っています。この旅では歴史背景と合わせてエリアごとの特色を知っていく面白さがあった。」と大陸縦断の魅力を語った。
アメリカの歴史を追いつつも、アトランタではアメリカの新しい時代の動きを感じた。「オリンピックは一時はモスクワのボイコットなどもあって下降線を辿っていましたが、84年にロス五輪で商業的に大成功すると再認識され、アトランタオリンピックは注目が高かったんです。当時のアトランタには地元老舗企業のコカ・コーラに加えてCNNなど新しい産業が出てきていて、街全体が盛り上がっていましたね。それまで空洞化していた中心部のスラム街を再開発していて。南北戦争で敗北し焦土と化した南部アトランタでオリンピックをやるということはアメリカにとってエポックメイキングだったんです。」
現在、新型コロナウィルスの蔓延で世界はまた時代の転機を迎えている。数々の時代の動きを旅人の目線で見てきた新井社長に、アフターコロナの旅の予想を尋ねてみると、「密を避けてネイチャーや個人旅行などのトレンドは世界的に出てくると思いますが、一方で、大胆な行動に出られず小さくまとまる可能性も考えられます。ただ、ワクチンが出たことでそれほど恐れなくなるのではと思いますね。保険商品や現地の医療情報が充実するなど、対策も出てくるでしょうし。それに、やっぱり旅が喚起する好奇心や魅力には勝てないと思うので、100%回復とはいかなくても7〜8割型は普通に従来通り旅ができるようになると思うんです。」とポジティブな回答。
懸念はむしろコロナ以外にあるよう。「今後、危惧があるとすればいわゆるカントリーリスクの方。アメリカと中国という2大強国の覇権争いになったことで新冷戦のような状態になってきていることや、香港やミャンマー、アフガニスタンの情勢なども心配です。」かつての旅で政治的な理由で入国の可否が分けられた経験があるため言葉に実感が込もる。
「入国できなくなると間接的な情報しか入ってこなくなって、それが政治的な話題に終始するようになると、“敵対している国”“悪い国”“怖い国”という先入観が増幅してしまいます。民間交流があれば理解が進むけれど、政治的にシャットアウトされたら一旅人にはどうしようもありません。そういう環境が撲滅されていくことが、我々の願いだと思います。」
<プロフィール>
新井 邦弘(アライ クニヒロ)
1990年株式会社学習研究社(現・学研ホールディングス)入社。『ムー』編集部、『歴史群像』編集部、『メンズライフ』出版事業室など一貫して編集畑を歩む。2014年、株式会社学研ホールディングスのグローバル戦略室長就任。2021年1月、『地球の歩き方』の事業譲受により新社設立、代表取締役に就任し現職。
※当記事は、2021年10月1日現在のものです
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