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16〜17世紀、アユタヤーには中国や近隣アジア諸国のほかポルトガル、オランダ、フランス、イギリスなどヨーロッパ諸国からの商人も集まった。アユタヤー王はこれら外国人に住居を与え、町を造成することを許可。こうしてできた町のひとつが日本人町だ。徳川家康時代から御朱印船貿易で栄え、1610〜1630年の最盛期には1500人程度の日本人が住んでいたといわれている。彼らの多くは交易に従事したり、王宮に仕えて傭兵となったりしていた。
その後、家光時代の1635年、第3次鎖国令により御朱印船貿易も終わりを告げ、日本人町も消滅した。現在では町の面影はまったく残っていないが、日本人町をはじめ日泰交流の歴史についての博物館、日本庭園、記念碑などが敷地内に建っている。博物館では日本人町についてのビデオ上映も行われている。
史上名高い日本人町の頭領山田長政は、23代ソンタム王に重用され、傭兵隊長、やがては六昆(リゴール。現在のナコーン・シー・タマラート周辺)の地方長官にまで上り詰める。しかし王位継承の争いに巻き込まれ、毒殺されてしまったと伝えられている。