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松尾芭蕉の謎と忍者説
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(月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。・・・)
つきひは はくたいの かかくにして ゆきこうとしも またたびびとなり。
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松尾芭蕉で有名なあの(おくの細道)の冒頭部分です。
教科書にも出てくるので、一度は目にした方も多いかと思います。
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実はこの(おくの細道)が芭蕉忍者説にも関係があるのです。
(詳細は次号版です。)
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時は江戸時代・・・。
まるで浮世絵師・東洲斎写楽の謎・・・みたいですが、俳諧の巨匠・松尾芭蕉にも、謎とそれに伴う(伊賀忍者説)があります
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中でも様々な説がありますが・・・。
いくつか代表的な説を連ねてみました。
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なんといっても、伊賀=忍者が世に知れ渡っていた江戸時代・・・*前回でも取り上げたのですが、当時は伊賀忍者や甲賀忍者は相当有名な存在でした。
それゆえに忍術書にも「伊賀・甲賀という言葉を使ってはならない。」と明言されていた位でした。
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*【伊賀国・忍者(其の四)の巻~忍者の合言葉~】参照
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そこで仲間にだけ伊賀出身者だと通じるように(私は「くり」から来た。)という表現を編み出しました。
「くり」→「栗」→「いが」→「伊賀」
つまり(いが栗)からの連想法でした。
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松尾芭蕉はこの忍者で有名な伊賀国出身者であるということが、(忍者説)の大きな理由のひとつになっています。
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実際の松尾芭蕉も母方は有名忍者(百地三太夫)の子孫だったと言われています。
しかし零落し、農民の身分になっていました。
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当時、武士と同様に氏(姓名)を名乗ることが出来た忍者の上忍や中忍。
このことも松尾芭蕉(忍者説)に繋がっています。
没落した百姓では名乗れない氏(姓名)も忍者の上位なら名乗ることが出来たからです。
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また、有名な俳諧人である松尾芭蕉の職業に目をつける者もいます。
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こちらも*前回に書いた通り、国を巡り歩いても怪しまれない、自由に行き来が出来る職業に忍者達は成りすましていました。
もちろん、本職とたがわないよう、その職業の専門家でもありました。
僧や商人や猿楽師など・・・。
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*【(伊賀国・忍者(其の六)の巻~忍者の七変化~)】
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江戸時代は国境(くにさかい)に関所が設けられ、奉行所が発行した(往来手形)や(通行手形)がなければ、関所を通過することは出来ませんでした。
今ならパスポートがなければ税関を通過できないのと同じですね。
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それほど、国内の人と人との行き来が厳しかった時代に松尾芭蕉は俳諧人として自由に国内を行き来し、創作活動を続けていました。
謎のひとつは、その通行手形の件、そして度重なる旅の資金の出どころ・・・など。
旅を続けるには、豊富な資金が必要で、また通行手形がなければ動けない時代でした。
彼はそれをどうやって手に入れることが出来たのか?
ここに(伊賀忍者説)を持ち出す者もいます。
豊富な資金や通行手形は幕府から隠密の仕事の為に出されたのであろうとの推測です。
(手形は??ですが・・・)ただ例外として、彼のすぐれた俳句という芸術性を高く買うパトロンが存在していた場合もあるかも知れません。
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(松尾芭蕉①で取り上げた【俳聖殿】。松尾芭蕉翁が旅する姿を模した建物。)
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有名な俳句(松島やああ松島や松島や)を松尾芭蕉の句と誤解される方も多いかと思います。
この句は実は狂歌師・田原坊の作です。
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ただ松尾芭蕉の(松島)への憧憬は有名だったゆえ、勘違いされ伝わった可能性があると思います。
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松尾芭蕉自身は、(おくの細道)に出発前から、【名勝景・松島】に対する憧れを幾人にも手紙などで表明しています。
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しかしながら、憧れの地・(松島)から発案されたであろう旅(おくの細道)では、何故か?この(松島)の句が出てこないのです。
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また(松島の月先心にかかりて、)と、松島の名月がまず心に気に掛かって・・・旅に出ることにしたので家を人に譲り、出発まで仮住まいに移ることにしたと描かれてる箇所もあります。
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家を手放し、旅に駆り立てられる程の憧れの地(松島)・・・。
この(松島)のことも松尾芭蕉の謎のひとつです。
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では?何故?そんなにも憧れていた(松島)を放り出して、松尾芭蕉はどこに行っていたのか?
ここからもまた(忍者説)が浮かび上がってきます。
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次号はいよいよ(おくの細道)と松尾芭蕉(忍者説)の関連へ。