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前回の続きとなります。
やっと、吉備津彦の墓と伝えられる全長105mの前方後円墳の中山茶臼山古墳に到着しました。
古墳時代前期(4世紀頃)に築かれたと推定されています。
天皇の皇子のお墓なので宮内庁の管轄となり全国の御陵と同じように立ち入ることはできません。
参道はカエデが多く紅葉がきれいでした。
想像以上に広く立派な御陵でした。
大和政権にとって、吉備国を制圧することのできた吉備津彦命は大きな存在だったのでしょう。
考古学的調査は行われいませんが、墓域からは特殊器台形埴輪が採取されています。
実際のところ、吉備津彦命が実在したかは不明ですが、南に吉備の穴海が広がり海運の要所であることから大きな勢力を持った大首長の墓であることは間違いないと思います。
御陵前の広場の片隅に紅い前掛けをしたお地蔵さまの列が……
おそらくこの先の、平安時代に山岳仏教で栄えた八徳寺へ続く道だと思います。
帰ってから知ったことですが、明治4(1871)年、倉敷県庁に提出された「一品吉備津宮社記」によれば
八徳寺は「波津登玖神社」であり、祭神は「温羅命」となっているそうです。
このことから、中山茶臼山古墳には温羅が祀られているとする研究者いらっしゃるそうです。
かなり、驚きの新説(?)です。 Σ⊙▃⊙川
吉備の中山の山中には、まだまだ遺跡があふれていますが、ここで吉備津神社へ向けて山を降り県道に出ます。
県道からさらにその下の遊歩道におりると清々しく気持ちのいい道です。
鬱蒼としているけど、こんな道が好きです。小川に沿って下りて行きます。
川の水がほとんどなかったので、せっかくの滝も流れていませんでした。
ふだんは赤い祠から水が流れ出ているのです。
やっと、吉備津神社の西の端に到着です。
おつかれさま~。
備中国一之宮の吉備津神社については、またいつかレポしますね。
ここの社殿は国宝に指定されていて見どころ満載の神社です。
吉備津の松林から中山を振り返ります。
左が龍王山で右が御陵のある茶臼山です。
こうやって、ふたつのお山を眺めると達成感を感じます。
すっかり夕方になりました。
夫が吉備線を撮影していたので車を置いた吉備津彦神社まで電車で帰るのかな?と思ったら歩きでした~。
帰りは、吉備の中山の麓の道を歩きます。
てくてく歩いて福田海のお寺を通ります。
天柱岩からこんな下まで下りて来ていたんですね~。
車で通ると見落としそうな小さな川ですが、細谷川といいます。
吉備の中山は、備前国と備中国が仲良く分け合っていて、山の北側の境界が細谷川だそうです。
この川は、古くは古今和歌集の中にも載っています。
「まがねふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」
私は細谷川の橋から写真を撮っていますが、この橋の名前が両国橋で備前と備中のふたつの国をまたぐ橋という意味です。
また、石碑の左側面には
「野は里に ひらけゆく世も 谷川の ほそき流れは なお残りけり」
という明治の宰相山県有朋の歌も刻まれていました。
麓を歩くと龍王山へ登る道が幾本かあります。
スタート地点の吉備津彦神社に戻ってきました~。
¥(^O^)/
山あり谷あり歴史あり、私たち夫婦にはちょうどいい登山でした。