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プーケット在住のベストセラー作家、咲乃月音さんが紡ぐ物語「108歳までに花を咲かせたい」

日向みく

日向みく

タイ特派員

更新日
2022年2月23日
公開日
2022年2月23日
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代表作『オカンの嫁入り』などで知られるベストセラー作家、咲乃月音さん(本名:よしほさん)。咲乃さんが明るい大阪弁で紡ぐ人情味溢れる物語は、彼女のどんな人生から生み出されているのでしょうか。

OLから作家へと転身して夢を叶えた経緯や、過去の作品に込めた思い、現在のプーケット生活など、その素顔に迫ります。

◇作家・咲乃月音(さくのつきね)のプロフィール 1967年、大阪府出身の女性小説家。現在はアメリカ人の夫・二女とプーケット在住。2007年、執筆した『オカンの嫁入り』が、宝島社主催、第三回日本ラブストーリー大賞「ニフティ/ココログ賞」を受賞し、作家デビュー。同作は翌2008年に書籍化。2010年に宮崎あおい、大竹しのぶのダブル主演により映画化。累計30万部を売り上げるベストセラーとなっている。

大阪で27年、未婚の母とふたり暮らし

オンラインインタビュー中の様子

――作家・咲乃月音として活動されているよしほさん。まずは簡単な自己紹介をお願いします。

プーケット在住のよしほです。2017年にタイ移住して、最初の3年はバンコク、2020年にプーケットに移りました。アメリカ人の夫と娘ふたりとの4人暮らしで、子育てに奮闘しつつ、ちょこちょこ作家活動もさせてもらっています。

――生い立ちについて教えてください。

大阪の江坂という町で生まれ育ちました。未婚の母とふたり暮らし。母の仕事は夜勤もあったので、わたしは常にどこかに預けられていましたね。

――当時、寂しさを抱えることはありましたか?

それが、案外なかったんです。あったものがなくなると寂しいと思うじゃないですか。でも私の場合、生まれたときから父がいなかったし、母が仕事で留守が多いのもずっと当たり前の生活だったので。

母と一緒に過ごす時間は、短くてもすごく濃かった。機関銃のようによくしゃべる人で、いつも「今日はなにしたん? なに食べたん?」と質問攻め。そのテンポについていけない私に「なんでしゃべらんの?」と聞くので、「だって、お母さんがずっとしゃべってるから…」って (笑)。

幼少期のよしほさんとお母さま

――どんなお子さんだったのでしょうか?

とにかく昔から本が好きでした。あまりに本ばかり読むもんだから、心配した母が私を水泳教室に通わせたんです。

ほんならラッキーなことに、水泳教室のとなりが「図書館」だったんですよ。水泳教室さぼって図書館いって、ばれへんように水着を水道の水で濡らして帰ってましたね。悪い子でしょう(笑)。

――昔から海外には興味があったんでしょうか?

そうですね。英語に興味をもったのが始まりでした。高校のとき、英語の先生が「キミ、英語のセンスあるよ」って言うてくれて、「え、ほんま?」って浮かれちゃって(笑)。

縁あって7歳からガールスカウトに入って、16歳のときに1か月半ほどアメリカに行ったんです。海外なんて新婚旅行くらいしかなかった時代、「よしほが死なんように」と母が千羽鶴を折ってくれて、「戦争行くんとちゃうんやから」と笑いましたね。

人生初海外、ものすごい刺激を受けて、「英語でこんなに世界が広がるんや」とワクワクしました。その勢いで京都の外国語大学に進学して、大阪の実家から通っていました。

ガールスカウトでお世話になったアメリカ人ファミリー

――大学卒業後の進路は?

外資系の金融会社に就職して、27歳までの5年間は大阪の支店で働きました。

23年の香港生活。アメリカ人男性と国際結婚

金融会社のOL時代

――香港移住の経緯は?

金融会社で働き始めて5年後、勤務先の大阪支店が閉鎖になっちゃって。東京支店に異動との通知があり、ふと「愛する大阪を離れるくらいやったら、どっか遠いとこでもいいな」と思ったんです。

ほかの就職先も探したけど、バブルが弾けたあとで募集がない。それで上司に「他のポストありませんか?」と聞いたら、「香港支店があるで」と言われて、「私いきます!」と手を挙げました。その5か月後には香港にいてましたね。

――そこから23年も香港に住むことになるとは、想像していましたか?

いえ、まったく(笑)。当初は2年くらいかと思っていました。でも香港生活は私の肌に合っていて、街も人も大好きになって、振り返ると宝物みたいな23年間でしたね。

香港のラグビー観戦で「コスプレ」に目覚めた(前から2列目中央がよしほさん)

――香港でご結婚・出産をされていますよね。

はい。香港で開催されたラグビー観戦で、アメリカ人夫と出会いました。彼の第一印象は "やかましい人"。毛深いから自分のことを「毛ガニ」って呼んでて、変な人~って思いました(笑)。

でもそこから徐々に惹かれ合って、私が39歳のときに結婚。娘2人にも恵まれました。

金融OLがベストセラー作家へと転身

――よしほさんはいつ頃から「書くこと」がお好きだったのでしょうか?

幼稚園くらいのときかな。昔から「いつか物書きになりたい」と、ぼんやり夢見ていたんです。当時はいまみたいにブログやSNSがなかったので、ひとりで日記や小説を書いていましたね。

社会人になってもその夢は頭の片隅にずっとあって。でもただのOLやし、夢は夢のままおいといて、歳とってから「ばあちゃんな、昔は作家さんになりたかったんよ」って孫に語る… そんくらいが幸せかもな~、とも思っていました。

――なにかを書いて発信するというのは、いつから始められたのでしょうか?

香港生活12年目のときですね。当時はメールマガジンが流行っていました。海外在住者がリレー形式で在住国を紹介するメルマガがあって、「香港担当者が日本に帰国するから、よしほちゃん書いてみない?」と友達が声をかけてくれて、引き受けることにしたんです。

いざ書き出したら、めちゃくちゃおもしろくて。読者の方からいただく反応も嬉しく、「あぁ楽しいな」「やっぱ私、書くお仕事したいな」って思ったんです。でも仕事にするんやったら、どんな時も書かんとアカンでしょ? 楽しいときだけやなくて、しんどいときも辛いときも。

「とりあえず修行しよう」と思い立ち、当時まわりで流行り始めてたmixi(ミクシィ)で、「読んだ人が楽しい、おもしろいと思ってくれるようなもんを、毎日必ず書く!」を目標に、1年間発信を続けてみました。1年過ぎてとくに苦痛じゃなかったし、周りの人が楽しんで読んでくださっている感覚もあり、「書くのってやっぱり楽しい! もっとやってみたい!」と思えたんです。

咲乃月音のデビュー作『オカンの嫁入り』(よしほさん提供)

――手ごたえを感じられたんですね。そこから作家デビューまでの経緯は?

ぽつぽつ出版社の公募に応募するようになりました。あるとき『オカンの嫁入り』というタイトルで小説を書き、2007年に宝島社主催の「日本ラブストーリー大賞」に応募したら、びっくり仰天。「ニフティ/ココログ賞」という賞をいただき、作家デビューが実現しました。

『オカンの嫁入り』は翌年に書籍化され、その2年後にはまさかの映画化と、夢が叶いすぎのような数年でしたね。「作家のお仕事だけで生活するなんて甘くない」と分かってはいたんですが、「できるところまで頑張ってみたい!」と、20年近くお世話になった金融会社を退職しました。

――「咲乃月音」のペンネームはどのように決めたのでしょうか?

作家デビュー当時、宝島社の担当さんから「作家さんらしい名字と名前を考えてください」と言われまして。最初は大阪大好き人間やから、「道頓堀ぐりこ」にしようと思ったんです。でも姓名判断で大凶だったのと、「ふざけるな」とお叱りうけそうやったんで、諦めました(笑)。

漢和辞典を片手に好きな漢字をいくつか書き出して、そのなかで色々と組み合わせて、ゴロが悪くなく姓名判断も大吉やったのが「咲乃 月音」だったんです。「宝塚みたいな名前ね」って、よう言われます。自分とはイメージ違いすぎやったと、いまだにちょっと後悔してるんですが (笑)。

ベストセラー『オカンの嫁入り』の創作秘話

『オカンの嫁入り』の映画セットで記念撮影

――『オカンの嫁入り』では「母と娘、親子の絆」が描かれていますが、このオカンのモデルはよしほさんのお母さまでしょうか?

この小説に登場するオカンは、私の「理想のオカン」です。実は、自分の母を反面教師にして書いた部分もけっこうあります (笑)。もちろん実体験に基づくことも多いですよ。たとえば私の母はモノをよく拾ってくる人で、そこからインスピレーションを得て「オカンが男の人でも拾ってきたらおもろいな」と思って物語にしたり。

『オカンの嫁入り』が書籍化されたとき、母は地元の本屋で私の本を見つけて、「ちゃんとした本や。うちの娘の本や……」と号泣していました。どうやらホッチキスで留めたペラペラ冊子を想像していたようです(笑)。

――『オカンの嫁入り』のストーリー構成は、執筆する前から決まっていたのでしょうか?

私がお話を書くときって、頭の中に明確に "描きたいシーン"があって、それに向かって物語を書き進めていく感じなんです。『オカンの嫁入り』の場合は、「ぼくは100年いっしょにおられる他の人より、たとえ1年しかおられんでもあなたといたい」というセリフのシーンを常に思い描きながら執筆していました。

――『オカンの嫁入り』の映画化が決まったときはどんな心境でしたか?

信じられませんでした。オカン役の大竹しのぶさんは、私がお話を書くときにイメージしていた方なんです。物語をお読みいただき、快く役を引き受けてくださいました。娘役の宮﨑あおいさんは、たまたま空港で私の本を手にとってくれて、雑誌で紹介までしてくれはったんです。

出版社の編集さんに「宮﨑あおいさんが雑誌で紹介してくれましたよ!」と大喜びで報告したら、「それなら!」とご本人に連絡をとってくれて、なんとこちらも映画出演にご快諾。もう感激しました。

手をつなぎバージンロードを歩くよしほさんとお母さま

――よしほさんのお母様は一昨年に89歳で逝去されました。どんな方だったのでしょうか?

パワーがあって、強烈で、とにかくすごい人でした。"シングルマザー" なんて言葉もまだない時代に、故郷の淡路島から大阪に出て、たったひとりで私を生んで育てて。「あんたが生まれてきたことが一番の幸せ。あんたは私の宝物」と、いつも言ってくれた母でした。

彼女は『上を向いて歩こう』が大好きで、「私が死んだら葬式でかけて」と言われていたんですけど… 「死んだときにかけても、しゃあないやん」と思い、結婚式のときにこの曲をかけて、母と手をつないでバージンロードを歩きました。

下を向きたいこともいっぱいあっただろうに、いつも上を向いて笑ってるような、そんな人でしたね。母のお葬式では約束どおり、『上を向いて歩こう』を流して見送りました。

不妊、流産、ジェンダー差別……作品に込めた想い

作家・咲乃月音さんのご著書

――ご著書『うさぎのたまご』(文庫版改題『オカンと六ちゃん』)で、不妊治療や流産に対する苦悩や葛藤を題材にした本を出版されていますが、これはご自身の実体験をベースに書かれたものなのでしょうか?

はい、実体験にかなりもとづいてます。私は1人目の子どもを43歳、2人目を47歳目前で産んでいて、不妊治療はもちろん、流産も7回ほど経験しました。本に登場する夫婦関係とかは架空ですが、不妊や流産についての知識は自分の体験から得たものですね。

――よしほさんご自身は「ずっと子どもがほしかった」のでしょうか?

30代前半のうちは仕事も遊びも楽しかったし、「母になりたい」という気持ちはあまりありませんでした。でも35歳くらいになって、ふと「オカンが死んだらあたし、独りぼっちになっちゃうな」って思ったんです。

母も高齢出産でかなり年をとっていたし、「やっぱり家族が欲しいなぁ、子どもが欲しいなぁ」という気持ちになって、結婚してすぐに妊活を始めました。

――47歳でのご出産はいわゆる「超高齢出産」に当たると思いますが、これも計画されていたのでしょうか?

いえ、まったく。なので妊娠がわかったときは、椅子から転がり落ちるかと思うほど驚きました。4年以上凍結していた受精卵が最後ひとつだけ残っていて、「廃棄するか、お腹にもどすか」の選択に迫られていたんです。捨ててしまうのももったいないし、どうせ芽生えない命やったとしても、私のお腹の中に入れてあげたほうがええかなって、そんな感じやったんで。

看護婦さんに「陽性でました!」と報告したら、「えぇ、本当ですか!?よしほさん、落ち着いてくださいね!」と大慌てされて。「いや、キミがや」と逆に冷静になれましたね(笑)。

第一子が誕生したとき

――『うさぎのたまご』にはどんなメッセージが込められているのでしょうか?

不妊治療について少しでも伝えられたらいいな、と思って書きました。当時はいまよりもっと、不妊治療の世界が閉ざされていたんです。私自身、夫と支えあっていたものの、なかなか周囲に相談できないし、心身ともにしんどくなることも多くて。

そんなとき、不妊治療に取り組む女性たちとネット上で交流する機会がありました。見ず知らずの彼女たちとの対話でかなり救われたし、「世の中にはこんなにたくさんの方が赤ちゃんができなくて悩んでるんだ。私にもなにかできないかな」と思ったんです。

ただ、かなり難しい題材でしたね。初稿を提出したら、「不妊治療が辛いという個人的な体験談やグチはブログでも書けますから。もう少し学びのある "お話" を書いてください」と言われて。「たしかにそうやな」と思い、すべて書き直しました。

プーケットご自宅の作業スペース

――『ぼくのかみさん』(文庫版改題『僕のダンナさん』)など、BL(ボーイズラブ)小説も出版されていますよね。このテーマを取り上げるきっかけが何かあったのでしょうか?

私の友人にゲイの子が何人かいて、彼らの話から感じるモヤモヤがあったんです。自分たちがゲイだと分かったとたん、初対面の人でさえ "セックスに関する話" をズケズケと聞いてきたりすると。

男女のカップルに初対面で会って、「どの体位が好きなんですか?」とか、普通聞かないじゃないですか。でもなぜか、ゲイやと "下ネタオッケー" みたいな。ゲイの友人が「異性カップルと同じように恋愛しているのに、なぜか色物扱いのようなことをされてしまう。辛い」って、ポロっともらしたんです。

その場では冗談でかわしても、彼らは深く傷ついてる。その苦悩や葛藤に少しでも光をあてられへんかなって、そう思って書きましたね。

タイの南国リゾート、プーケットでの暮らし

のんびり豊かなプーケット暮らし

――2017年に香港からタイの首都バンコクへ移住、2020年にはバンコクからプーケットへ移住されています。

香港の大気汚染がひどくて、喘息もちの長女のためにも、馴染みがあるタイに移住を決めたんです。ところがバンコクに住みはじめたら、こっちも乾季の10月から4月まで空気が悪くて。

あるとき私が冗談で「じゃあプーケットに移住しちゃう?」と言って、夫とふたり「はっはっは」って笑ってたんですけど… 3ヶ月後くらいに「ほんまにそうしようか」という話になりまして。ほんま、流木民みたいですよね (笑)。

――プーケット暮らしはいかがですか?

ここの生活はとても好きです。空気がきれいで、のんびりしていて。

ただ、日本食レストランが少なかったり、安心して通えるヘアサロンがなかったりといった不便はあります。コロナがなければ定期的にバンコクに飛んで、美味しい日本食を堪能して、ヘアカットもできるけど……。ロックダウンで9カ月間プーケットを出られなかったときは、さすがにこたえましたね。

とれたてパパイヤが「ご自由にどうぞ」と置いてあるプーケットの日常

――プーケットに住む期限などは決められていのでしょうか?

とくに考えてないです(笑)。私ね、どんな占い師にみてもらっても「ボヘミアンみたいな人」って言われるんですよ。風の吹くまま、気の向くままに、これからも生きていくんだろうなぁ。

108歳までに花を咲かせたい

娘さんたちからの応援メッセージ

――今後の夢や目標はありますか?

子育てもちょっとひと段落してきたので、書くことをまたがんばりたいですね。作品を通じて、「なにかあったかいもん」をお届けできたら嬉しいなと思います。チャンスがあれば、時代物にもチャレンジしてみたいなぁ。

なかなか執筆の時間がとれず、葛藤も多い日々ですが、子どもたちも「お母さんなら書けるよ!」と応援してくれています。

――よしほさんにとって「書くこと」とはなんでしょうか?

「大切なことを忘れないために書いてる」って感じですかね。作家のお仕事とは別に、ずっと日記も書き続けています。「3年日記」という日記帳で、1ページに3年分書けて、3年間の同じ日付を振り返ることができるんですよ。長女、二女、私の分と3冊あります。

子どもが言ったこと、子どもに対して私が思ったことなどを、つらつらと書いてます。しばらくして読み返すと、子どもの成長と自分の老い(笑)を確認できるんです。

長女、次女、よしほさんの「3年日記」

――座右の銘は?

アントニオ猪木さんの『道』という詩が大好きです。

"この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ 行けばわかるさ"

「あーどうしよう」って人生に行き詰まったときも、この言葉を思い出すと、「まぁ考えてもしゃーない、いこ!」って前向きになれる。

私ね、108歳まで生きるつもりなんです。次女が還暦になったとき、一緒に赤い服を着てお祝いしたいから。それまで、母としても作家としても花を咲かせられるよう、精一杯がんばりたいです。

◇インタビューを終えて 飾らない自然体な笑顔と、親しみやすい大阪弁で、ユーモアを添えながらお話くださったよしほさん。その温かいお人柄と、言葉の端々から感じられる愛情深さに触れ、こちらの心がするするとほどけていくようで、作家・咲乃月音さんが紡ぐ澄んだ優しい文章とぴったり重なりました。108歳を目指して日々進化し続ける彼女から、今後どんな物語が生まれるのか楽しみです。

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