七尾城登山Ⅰ
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あけましておめでとうございます。
新年早々、前回の続きです。
七尾城の二の丸から眺める空は昨日の秋雨が嘘のような青空でした。
この辺りから石垣が目立ち始めます。
石の種類まではわかりませんが野面積みで築造されていますね。この
二の丸から少し下ると「桜馬場」と呼ばた場所に出ます。軍馬の調教をした場所と案内板にありました。
今も石垣がしっかりと残っている場所は、守護代家の遊佐氏の屋敷跡です。更に後ろの石垣の階段は本丸へと上っていきます。
「桜馬場」の風景をCGで再現したものがありました。
突き当りが遊佐氏の館、その背後の山に本丸があったようです。上の写真と見比べて見てください。
遊佐氏の屋敷の鳥瞰CGです。
そして、この階段が本丸へと続きます。左の石垣は3段になっています。
ここにもCGがありました。金沢城と同じで天守閣は無かったのですね。
標高305㍍の本丸跡に登ってきました。曲輪(くるわ)跡が50×40㍍あり広々とした空間です。巨大な「七尾城址碑」は、宿敵・上杉謙信の居城である春日山城に向けて建てられて建っているといます。
上杉謙信が2万の軍勢を率いて七尾に攻め込んできた時には、領民を城内に入れ1万5千人で籠城したといいます。この広さに1万5千人というのは、城内のキャパシティーを超えていたと思いませんか?
そして、櫓台の上に祠のような城山神社がありました。昭和になって建立されたものだそうです。
標高305㍍から見下ろす七尾湾です。
十分に堪能したので、降りて行きます。
眼下に見えるのが戦の時に弓矢や武具を整えた場所です。さらに降りて行くと「とよの水」という枯れることのない清水が湧いていました。
下りる途中、城址を振り返りました。この山城のどのあたりに満月がかかるのでしょうか。
上杉謙信が10カ月かけて七尾城を攻め落とし、将兵を慰労する宴で作ったと言われる有名な詩があります。「九月十三夜陣中の作」といいますが、有名なのでご存知の方も多いと思います。謙信がどこで宴を開いたのかは知りませんが、この日はたまたま十三夜の名月で、その月を見て作ったとされています。おそらく謙信にとっては至福の時だったでしょうが、この半年後には謙信はこの世を去ります。歴史に「もし」は無いけれど、あと半年持ちこたえていたら…能登畠山氏の歴史はどう変わっていたでしょうか。
そんなことを想いながら七尾城を下山しました。