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サローム(こんにちは)!
前回の記事でご紹介した、サマルカンド観光の中心ティムール広場から南西へ徒歩約15分。木々が生い茂る公園の向こうに、玉ねぎ型の美しい青のドームが見えてきます。これが大帝国ティムール帝国を築き上げたサマルカンドの英雄アミール・ティムールとその一族の葬られた霊廟、グル・アミール(ティムール廟またはグリ・アミール、グーリ・アミールとも表記)。レギスタン広場などより規模は小さいながら、この町が誇る偉人が眠る場所として、そして豪華絢爛なイスラム建築としてぜひ見学したい場所です。
階段を下りて左手のチケット窓口で入場券(一人3万スム:2023年3月現在のレートで約360円、ウズベキスタン在住者はアクレディテーションカードの提示で現地人価格に)を購入し、さっそく中に入っていきましょう。現れるのはアーチ型のゲートで、入口上部はイスラム建築用語でムカルナスといわれる装飾が用いられています。まるで鍾乳石のようなきめ細やかな突起で覆われており、その建築技術は驚くべきもの。このアーチ全体は青のタイルで彩られており、その模様の美しさに思わず見とれてしまいます。
このアーチの手前から見た左右対称に見える霊廟はここ一番のフォトスポットなので、観光客が少なければぜひ一枚撮っておきましょう。
このアーチをくぐると広い中庭に出ます。もともとこのグルアミールは霊廟としてではなくメドレセ(神学校)として建てられ、向かって右側に2階建てのハナカ(聖職者の宿舎)が、左側にメドレセが建っていました。これを建てたのがティムールの孫ムハンマド・スルタンでしたが、1403年のトルコ遠征で彼は戦死。ティムールは愛する孫の死を悲しみ、ここに霊廟を建てたのです。この廟は1年後に完成しますが、そのさらに1年後に中国遠征の途上でティムールも急死。そしてこの霊廟を建てた彼自身も、またここに葬られることになりました。
ティムール自身は彼の出身地シャフリサーブスに埋葬されることを望んでいたと言われますが、実際はこのサマルカンドにお墓がある理由は、亡くなったのが冬であり積雪によりサマルカンドからシャフリサーブスへの峠道を越えられなかったためとも、シャフリサーブスに埋葬するとティムールの死後帝国への攻撃を狙っていた敵に彼の死がバレてしまうからとも言われています。
中庭の右側には、当時使われていたティムール帝国ゆかりの品々が置かれています。クク・トシュ、青い石と呼ばれる大きな石は、クク・サロイ(青い宮殿の意味)と呼ばれるティムールの宮殿から運ばれたもの。大きい戦果を挙げた将軍や兵士にこの上で褒美をあげたとも、王の戴冠の儀式の際に王がこの石の台座に載せられたともいわれています。なおティムールの宮殿はこの地に進軍してきたロシア軍によって破壊され、残念ながら現在は見ることができません。
またこの石はティムールの孫ウルグベクが建設したハマム(公衆浴場)から運ばれた風呂桶。当時でもこの地にもお風呂文化があったようで、お風呂大好き民族日本人にとってははるか遠くのことだと思っていたこの土地の歴史が一気に近く感じられるかもしれません。この石にもいくつかの伝説があり、出征する兵士たちはここに小石を投げて帰還した兵士が石を取り出し、何人生還したか数えていたとか、飲めば強くなるといわれるザクロジュースをここに入れて出征する兵士たちが飲み、皆ふちにひじをかけて飲んでいたのでふちがくぼんでしまったとか。
それではさっそく霊廟内へ。霊廟にあるミナレット(塔)は現在2本ですが、かつては4本あったといわれています。
建てられた当時の入口は建物の中央にありましたが、現在はパンジャラという格子窓になっています。かつての入口はティムールの亡骸の頭上にあったものの、その孫ウルグベクがこの構造は失礼にあたると考えたからだとか。そのパンジャラの下にはティムール帝国の地図が置かれており、サマルカンドを拠点にインドやトルコ、ロシアまで戦に行っていたティムールの遠征の流れが分かります。なんとフットワークの軽い王だったのでしょう。
左手の入口から霊廟内へ。土産屋やティムールの家系図、建設当時のグルアミールの模型展示などを通り過ぎ、墓石のある部屋へ入りましょう。
部屋に入ったとたん広がるのは、壁一面を埋め尽くす黄金の装飾で、その美しさを前に呆然としてしまうことでしょう。1996年に修復が完了したこの廟内は3~4kgもの金が用いられ、黄金を塗る下地にはサマルカンドの特産品サマルカンドペーパーが使われています。装飾はコーランの言葉が書かれていたり、花や星をモチーフにしたアラベスク模様が描かれていたり。
廟内の中央にはいくつかの墓石が置かれていますが、真ん中にあるティムールの墓石はひときわ大きい黒緑色の軟玉で造られたもので、すぐ区別がつくでしょう。その東側(入口から見て手前側)の墓石はティムールによって葬られたムハンマド・スルタンのもの。北側にティムールの教師ミルサイード・ベリケとひ孫の一人、南側にウルグベク、西側に近い方から息子のシャールフ、ひ孫の一人、息子のミランシャーの墓石が並んでいます。これらの墓石は実際にこの中に亡骸があるのではなく、実際は地下3mの地下室に同じ位置関係で亡骸が置かれています。
このグルアミールにはファラオの呪いならぬティムールの呪いともいうべき伝説があります。有名な話が、ソ連の研究者たちが調査のためティムールの墓を開けた際、地元の老人から墓を暴くと災いが起きると聞かされ、なんと実際翌日に第二次世界大戦が始まったというもの。また、18世紀イランの王ナーディル・シャーが墓石を持ち去ったものの彼の子供が病気になり、墓石をまた元に戻した…という話もあります。
もちろん今は墓を暴くとか墓石を持ち去るとか物騒なことをしようとする訪問者はいないはずですが、ティムールを静かに眠らせておくためにも、お墓での最低限のマナーとして静粛に見学するようにしましょう。ウズベク人参拝者も、お墓でやる中央アジア式礼拝オーミン(水をすくうような仕草をして顔をなでるお祈り)をたいていここで静かにやっています。
霊廟を出た後は建物を一周してみましょう。真裏には、嘘か真かここから直線距離で60km離れたティムールの生地シャフリサーブスへ続くという伝説を持つ地下通路があります。また夕方に行くと、霊廟の青のドームが夕焼けに映える美しい眺めが見られます。
ティムール廟の裏から住宅街を通っていくと、15世紀に建てられたアクサライ廟という霊廟に入ることができます(別料金)。アクサライ(オクサロイとも表記)とは白い宮殿を意味し、その中にある墓石はティムール一族の誰のものなのかまだ明らかになっていません。
なおこのグルアミールは、レギスタン広場やビビハニム・モスクと異なり広さの関係から中に入れる人数が限られており、オンシーズンはかなり混み合う場合があります。気兼ねなくゆっくり見学したいなら、観光客の少ない朝一番か夕方に見学するとよいでしょう。
またこのグルアミールは観光地である以前に神聖なお墓なので、限度を越えて騒がない、肌を極端に露出した服装を極力避けるなどマナーを守りましょう。
それではコルシュグンチャ・ハイル(また会う日まで)!