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漢方藥店が軒を連ねる迪化街の周辺は「大稻埕」と呼ばれ、萬華に次いで発展し、台北のなかでも特に長い歴史を誇る。港に隣接していることから清代、日本統治時代に茶や乾物の貿易で栄えた。当時流行のバロック様式の装飾を施したアーケード街は近年古い建物のリノベーションが進み、往年の美しい町並みがよみがえりつつある。
コンクリート造りのアーケードの一画をリノベーションした小藝埕、民藝埕、眾藝埕、合藝埕には若い女性に人気の雑貨店やカフェが次々とオープンし、現在も進化中。建物はウナギの寝床のように奥行きがあり、その建築様式にも触れることができる。
永樂市場周辺の迪化街南側は、漢方薬やドライフルーツを売る店が並ぶ昔ながらの“オールド迪化街”。カラスミや花茶、ドライマンゴーなど定番のグルメみやげをリーズナブルに買える。北上して民生西路、歸綏街を越えると、レトロ建築にカフェやショップが並ぶエリアとなる。新旧のコントラストを感じながら歩きたい。
迪化街の周辺は「大稻埕」と呼ばれ、萬華に次いで発展し、台北のなかでも特に長い歴史を誇る。港に隣接していることから清代、日本統治時代に茶や乾物の貿易で栄えた。
淡水河が流れる広大な盆地(現在の台北)に清が注目し始めたのは18世紀のこと。
移民が増えるにつれ淡水にあった舟運の拠点はより内陸に移り、最初に発展したのが艋舺(現在の萬華)であった。艋舺の住民は中国の泉州地方からの移民だったが、寺社の勢力争いから同安出身者が立ち退きを余儀なくされた。同安人の守り神である霞海城隍廟とともに彼らが移り住んだのが、淡水河下流の大稻埕、現在の迪化街一帯である。
当時その一帯は水田だったようで、地名にその名残をとどめている。
艋舺は台湾北部の特産品である茶、樟脳などの積出港として発展したが、やがて港に砂が堆積し、船が着岸できなくなり衰退していった。それに変わって発展したのが大稻埕である。
1860年に淡水が開港されると、大稻埕にも外国の領事館や商館がおかれ、茶問屋の倉庫が建てられた。船着場と並行する建昌街(現在の貴德街)には洋館が建ち並び、台北最初の西洋式街路となった(洋館は李春生紀念教堂と陳天來故居のみが今に残る)。
日本統治時代、この通り一帯は港町と呼ばれた。
日本統治時代になると、商業の中心はしだいに迪化街(日本統治時代の名称は永楽町通り)に移った。当時、現在の西寧北路には淡水河に通じる港仔溝と呼ばれる運河が流れており、物資はこの運河から搬入され、東側の迪化街に面した店舗で販売された。商品は茶を中心に米や砂糖、樟脳、漢方薬、南北貨と呼ばれた乾物類、布地など多岐にわたる。財を成した商店は、アーケードを構え、当時流行したバロックやアールデコ様式の飾り正面をもつ2、3階建ての店舗にこぞって改築した。
また、裕福な台湾人商人が多かった大稻埕は、大正デモクラシーを受けて台湾の「新文化運動」の中心ともなった。演劇場などの文化施設がにぎわったが、今も貴德街に残る港町文化講座のように台湾人の地位を向上するための合法的手段による社会運動の拠点となるところもあった。
その後、台北の中心が城内に移るなど変遷もあったが、迪化街が一貫して問屋商店街であり続けたため、日本で言えば大正時代前期に当たる町並みが残り、台北一の老街の風情を今に伝えている。
古い建物を現代のセンスでショップやカフェに改装するリノベーションブームの波に乗り、これまで老朽化が進んでいた迪化街の建物も次々と修復が進んでいる。
特にコンクリート造りのアーケードの一画をリノベーションした小藝埕、民藝埕、眾藝埕、聯藝埕には雑貨店やカフェが次々とオープンし、「乾物が並ぶ漢方薬街」から「最新人気散策エリア」へとイメージをがらりと変えた。
迪化街の見どころや店は朝早くからオープンしているので、午前中の予定に組み込むことが可能。
最寄り駅は南側の北門駅と北側の大橋頭駅のふたつだが、北門駅から北上するのがわかりやすい。永樂市場、霞海城隍廟は早朝からオープン。歩き疲れたら古民家を改装したカフェでのブレイクがおすすめ。B級グルメやカフェ、スイーツは充実しているが、本格的なレストランは少ない。