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広大な遺跡の見学には、特に決まった順路はない。切符売り場横のツーリストインフォメーションで配布している地図や小冊子、地球の歩き方ガイドブックなどの案内を参考に歩きはじめよう。まずは遺跡のハイライトと呼べるフォロ周辺へ。神殿のシルエットの先にはべスヴィオ山がそびえ、いにしえのロマンを感じさせてくれる。その後、ファウヌス(牧神)の家、浴場、アッボンダンツァ通り周辺など予定と興味にあわせて回ろう。最後に秘儀荘を訪ね、「ポンペイの赤」で描かれたフレスコ画を鑑賞しよう。丹念に見学するなら1日、早足でも全体を見学するには2時間程度必要だ。遺跡内はかつての石畳とわだちの跡が残り、歩きづらく、季節によっては砂すな埃ぼこりも舞う。日陰も少ないので、見学には歩きやすい靴、特に夏季はサングラスや帽子、飲み物があるといい。水飲み場は数ヵ所にあるが、飲食を提供するのはレストハウスの1ヵ所のみ。駅から遺跡への途中にはバールなどがある。
紀元前1世紀~1世紀に造られた個人所有の浴場。2階建てで、冷・温プール完備で、洞窟からは滝が流れた、当時の最先端の浴場。Sala Freddaにはポンペイ第4様式のフレスコ画が残る。
海側の町の西門。歩行者用と荷車用にふたつのアーチがある。ローマ時代には眺めのよさから城壁沿いに別荘が建てられた。
紀元前4世紀前半ギリシア植民地の影響を受けて独立して建築されたため、周辺の建物とは別の方向を向いている。ヘレニズム建築が用いられ、紀元後2年には城壁側の民家との間を隔てる高い壁が造られた。中庭に向いて出土されたブロンズのアポロ像のコピーが置かれる。48本のイオニア式円柱で囲まれていた本殿の前には、奉納者の名前が刻まれた大理石の祭壇がある(現在は、壁と金網で囲まれ見えにくい状況)。
裁判や重要な商取引の場として利用されていた建物。紀元前2世紀後半に建造され、採光のため屋根をもたない縦長の室内は、コリント式円柱を2段に重ねた外壁と内側の太い柱で囲まれていた。
南北に延びた長方形の広場は、紀元前2~1世紀にドーリス式と上方のイオニア式の2層の柱廊で囲まれている。町の政治、宗教、経済の中心地だった場所。柱廊の基部が高いのは馬車の立ち入りを避けるため。
れんが造りの神殿の前に、ローマ皇帝の象徴とされていた月桂樹の浮き彫りがある大理石の祭壇が置かれている。
フォロの北側、ふたつのアーチの間にある町で最も重要な神殿で、ジュピター、ユノ、ミネルヴァの3神を祀ったもの。
穀物倉庫と市場になるはずが、未完成のままれんがの8本の柱のみ残る。現在は出土品の倉庫となっており、鉄格子の間から壺や石臼、遺体のコピーなどが見られる。
スタビアーネ浴場にならって、ローマの統治下(80年頃)に設置された。浴室は男女別に分かれていて、暖房は旧式で火鉢を用いていた。
男子用の温浴室の壁には男像柱の装飾が残る。沐浴用の水盤を備えた熱浴室も必見。
フォロから円形闘技場などのある東側に延びる、活気のある商店街の並んでいた主要道路。通り沿いの壁には選挙のスローガンや落書きが残る。カウンターに壺を埋め込んだ居酒屋やパン屋も並んでいる。
紀元前4世紀末に建設された最初の浴場施設。運動場として使われていた柱廊に囲まれた中庭の北側には、個室の浴室がある。
共同浴場は男女別になっており、中庭右側には冷浴室・更衣室・温浴室・熱浴室が設置されていた。中庭左側の中央にはプールがあり、両脇に更衣室があった。
三角フォロ入口の先にあり、女神イシスにささげられたもの。隣はサニウム時代の体育場。
紀元前3~2世紀の物でギリシア劇場を手本に設置され、5000人を収容した。客席上部からは遺跡を見渡す美しいパノラマが広がる。
小劇場Teatro Piccoloとも呼ばれ、音楽会のほかに政治の議会所としても使用されていた。
豪邸ともいえる大きな建物。奥には洗浄用の水槽があり、人や動物の尿を使って布を洗浄していた。
奥のエクセドラに描かれているギリシヤ詩人メナンドロスの肖像画が名前の由来。紀元前3世紀に建てられ、後年手を加えられた浴場をもつ広大で贅を尽くした豪邸。トロイ戦争を扱った「トロイアの没落の3エピソード」をはじめとするフレスコ画やスタッコ装飾、モザイクなどがよく保存され、当時の優雅な生活が想像できる。
テルモポリオとは居酒屋のこと。遺跡内に約90あったといわれ、その最大規模のもの。道路に面してカウンターが設けられ、穴の中には飲み物や料理が並んでいた。ララーリオとは神殿のような小礼拝堂のことで、後方の住居部分に
あり、商業とワインの神、店主の守護神、店主の姿がフレスコ画で描かれている。
美しい庭園の奥の青の壁面に貝に乗ったヴィーナスと天使を描いたフレスコ画がある。
紀元前80年建設の闘技場は、全市民(約2万人)が集うと予想され、混雑を避けるために町はずれに建てられた。ここでは猛獣や剣闘士の戦いが繰り広げられていた。59年には、熱狂したポンペイの市民と隣町のヌケリアの市民との間で流血事件が起きたとされる。
紀元前2世紀に造られたポンペイ最大の貴族の豪邸。入って左側が迎賓の間で右が私邸。大きなアトリウムの中央には、家の名前となった牧神のブロンズ像(コピー)が置かれている。その奥にはスタッコで飾られ彩色された28本の柱が並び、アトリウムに面して2つの庭園が広がり、その床は「ダリウスとアレキサンダー大王の戦い」のすばらしいモザイクで飾られていた。牧神のブロンズ像、「ダリウスとアレキサンダー大王の戦い」のモザイクはナポリ・国立考古博物館で見ることができる。
ポンペイでよく見られるアトリウム(貯水池のある中庭風の広間)のある家の典型的な構造がよく残っている。紀
元前1世紀に建てられ、風景画のフレスコ画で飾られている。名前の由来となる小噴水は奥にある神殿のような形状で、モザイクとガラス粉で細密に装飾されている。
巨大な富を手にした商人、アウロ・ヴェッティオ・レスティトゥートとコンヴォーヴァの豪邸。入口の右の柱には巨大な男根と金貨の入った袋を天秤にかける生殖の神プリアポスの姿が描かれている。また、奥の部屋にある“ポンペイ
の赤”と呼ばれる独特な朱色の壁面を黒地の装飾帯で仕切り、神話などをテーマに描かれた第4様式のフレスコ画は必見。
帝政期の典型的なこぢんまりした家屋で、2軒の居酒屋の間に玄関がある。その床には番犬のモザイクがあり「猛犬に注意Cave Canem」の文字が書かれている。2階は宿屋で、食堂の床に監督が立ち会った演劇の稽古場面のモザイクがあるため、家にこのような名前がつけられた。
奴隷から解放された自由民、ダィオメデスの邸宅。下方にある庭園で噴火の犠牲者の遺骨18体が発見されている。
紀元前2世紀前半に母体が建設され、その後今の姿に改築された。ここで注目したいのは、「ディオニュソスの秘儀」への入信の様子を描いたフレスコ画だ。背景には“ポンペイの赤”が使われ、左側の裸の少年が儀式の作法を読み上げる場面から始まる連続絵画。中央の玉座にいるのがディオニュソス。神秘的でスケールの大きな作品は、ヘレニズム絵画の影響を受けたカンパニア地方の画家が紀元前70~60年の改築時に手がけたものといわれている。